
デンマークで反核運動が語られるときに必ずついて回るこのシンボルが、今ドイツで再燃している反原発デモで使われている様子を見て、一体オリジナルがどこから来たのか疑問に思っていた。そんな疑問は、デンマーク唯一の英字新聞、コペンハーゲンポストの記事によって解決された(Copenhagenpost, 2011.4.30-5.5)。1975年の4月に、デンマークのアネ・ルンドが、アクティビストのソーアン・リスベアとともにデザインした、とある。
このシンボルはたちまち45ヶ国語に翻訳され、反核運動のシンボルとして使われるようになった。Googleの画像検索でも、Nuclear no thanksといれるだけで、たちまちたくさんの言語のものが見られる。





こうして世界にまで伝播したデンマーク発のデザインではあったが、アネ・ルンド本人は、「経理関係は強くなかったから」と、当時、ポケットマネーで赤字を埋める生活だったことを明かしている(DinBy、2011.2.28 写真右側の女性だ)。コペンハーゲンポストの同記事(英文)が、デンマーク反核運動の興味深い点に触れているので、この歴史を少し抄訳してご紹介する。
デンマークでも前世紀中盤には、原子力発電が二酸化炭素をあまり排出せず再生可能であるために、化石燃料に代替するものとして期待され、1958年にリスウーの研究所に実験用原子炉が作られた。しかし次第に70年代になると懐疑派が出てきて、1974年には放射線の影響を憂慮した青年、シグフリード・クリステンセンによって、「原子力に関する情報協会(OOA)」が設立される。全員20代の青年で構成されたこの草の根団体は、反核のメッセージを非暴力的に伝えるため、微笑む太陽をシンボルとして用い、1975年の5月に一般公開されるようになった。しかしその翌年には、当時の通商大臣がデンマークに1995年までに5機の原子炉を設置する計画を発表したため、OOAの闘いが始まった。
1974年当時、石油危機の真っ只中にあったデンマークにとっても、原子力を選択するというのは政治家にとっての最善策だった。一般の人々は放射線の長期的な人体や家畜などへの影響といったものに対して無知だったため、OOAはまずリーフレットを配布し、集会やマーチ、講演や展示会といった平和的な示威運動をはじめる。風力や水力発電といったオルタナティブなエネルギーを推進し、OVE(再生可能エネルギーに関する協会。現在は改称してVEとなった)という姉妹団体も設立する。こうした運動は、1976年に設立された原発推進団体REO(リアルエネルギーに関する情報協会)と真っ向から対立するものとなる。
1977年にはコペンハーゲンからわずか20kmしか離れていないスウェーデンのバーセベックで原子炉が設置され、デンマークでも反対運動が活性化した。それからわずか二年後、スリーマイル島での事故が起こり、デンマークでもその様子を息を飲んで見守ったという。そしてOOAの精力的な活動もあって、1985年にようやくデンマーク国会で国内の脱原発が決定された。そしてその翌年、チェルノブイリでの事故が起こったことになる。OOAはチェルノブイリの周辺地域での放射線被害の状況について調査を重ね、その結果は、スウェーデンのバーセベック原発の閉鎖運動を支えるものとなった。そしてついにその甲斐もあって2000年5月31日にバーセベックの最後の原子炉が廃炉となり、OOAはその役目を終え、組織は解消した。
メガフォンの調査によると、現在のデンマーク国民の原子力に対する態度は、反対派が40%となっている。2009年のCOP15の頃の前には、二酸化炭素排出が大きな議題だったため、その割合は31%に過ぎなかった。現在、明らかに賛成・推進する立場と回答するのは7%に留まっており、これも2009年の12%から下がっていることがわかる。
デンマークに唯一存在した原子炉は、研究用のものでロスキレ市近くのリスウー研究所にあった。3基あったが、2001年には最後の1号基が廃炉となり、現在は稼動しているものはない。リスウー研究所はデンマークの物理学者ニールス・ボーア(1922年ノーベル物理学賞受賞)が設立に中心的役割を果たしたため、原子力の推進がその主なる役割だったが、85年の国会での脱原発決議によって、代替エネルギーの開発に力を入れるようになった。2007年にはデンマーク工科大学(DTU)と統合され、現在のリスウーDTUという名前になっている。
ちなみに、当時の原子炉で生産された核廃棄物の処理は、DD(デンマーク廃棄物処理機構)が扱っている。2018年にはDDによって処理された低放射性廃棄物が5000立方メートルほどでてくることになっているが、これをどこの自治体が引き受けるかが今ちょうどデンマークで議論になっている。廃棄物はそのほかにも、低濃縮ウランを得た後の233キロの劣化ウランもある。そこで、飲料水への影響や地震の危険を鑑みた上で、現在6箇所の候補地が挙がっている(DRニュース、2011.5.4.)が、了解を得るのは難航する見通しだ。廃棄物は、厚さ5センチのコンクリートのドラム缶に入れられ、さらにそれをコンクリートで固めた二層にしたものだが、それを地下30メートルに埋め、最低300年保存するのだ。その費用は、1億8000万から5億クローナかかるといわれ、さらにリスウーの原子炉を完全に廃炉にする費用10億クローナがかかるため、この実験原子炉は非常に高額につく実験となったことになる。
この廃棄物に関して、社会民主党は現在、もともと原子力発電を持っていて処理施設を持つ外国に送る案を提出している(DRニュース、2011.5.5.)が、IAEAはその国が廃棄物を再利用する場合に限って、国外廃棄を許可しているようだ。1985年に脱原発を決意した裏にあった市民運動、そして25年以上も前の賢明な選択にもかかわらず今も残る放射能廃棄物処理問題。情報公開と市民の力という点で、日本への示唆もあるのではないか。