2014年06月10日

自由放任とそれに付随する責任:デンマークのしつけと世界観

 更新をさぼっているブログであるが、先日、公益社団法人日本教育会から依頼を受けて、二号にわたってデンマークの教育に関して原稿を書かせていただいた。ようやくどちらも公刊されたので、ブログで公開する。(『日本教育 平成26年4・5月合併号』、pp.24-25より)

 デンマークでは、家庭教育という言葉に相当する概念を見つけるのは難しい。しかし、いわば学校で学ぶ教科学習以外の、子どもが身につける技能が「家庭教育」に期待される役割とすると、そういった世の中の合意のようなものは存在する。本稿では、メディアで触れられる記事を紹介しながら、デンマークのしつけや子ども観を紹介する。

 今年の二月、コペンハーゲンの動物園で、近親交配を防ぐという理由で、一頭の健康な1歳半のキリンが殺処分された。その数日前から、何の病気もなくまだ若いキリンが殺されるというニュースは世界中を駆け巡り、各地の動物愛護家からの取りやめ嘆願書や、他の動物園からの引き取り願いの話も出ていた。しかし、動物園側は予定通り殺処分を実行し、一般公開し子どももいる場でキリンを解体し、その肉をライオンなどの餌として与えたことが世界に衝撃を与えた。

 これにより、動物園をボイコットしようという呼びかけや、園長への脅迫なども伴った批判の声が出てきたが、解体して餌にするとなど、まったくもって理解不能、「デンマークはたぶんヨーロッパでも最もどうかしている国だ」(カナダのポール・ワトソン 反捕鯨活動家)という諦めにも近い声を含め、聞かれた批判の多くは外国からの非難であり、日本でもこのニュースは報道された。

 日刊紙インフォマシオン は、このキリンの殺処分からデンマークの世界観を解釈している。オーフス大学教育学研究科教授、ニン・デ・コニンク・シュミットによると、子どもは抽象的な概念を具体的な事象や現実の例と出会いながら学ぶのが最適だという考え方がデンマークにはあり、これはペスタロッチ教育学に端を発するという。そのため、このキリンの殺処分・解体の例も、デンマークの子どもたちにとっては、自然がどうした原則で動いているかを一個の人間として見つめ、その世界観のなかで育っていく。「子どもを常に守り、幼児扱いする他の国とは一線を画する」とコニンク・シュミットは語る。オーフス大学で児童文学センター長を務めるニナ・クリステンセンも同意見であり、アメリカやイギリスを中心とした国々では、動物を愛らしいものとしたロマンチシズムに根差している一方、デンマークでは啓蒙時代に築かれた、自然に出て行き、その観察の中から学ぶという思想に根差していることを指摘する。

それに加えて、三〇年代に発展してきた改革教育学の影響も大きい。子ども自身の発達を出発点として、そこから意思決定の主体として子どもの意見を取り入れていく。教員などの権威が一方的に教えるものを常に正しいと受け取るのではなく、そこに批判的・懐疑的な姿勢をもって民主的に参加しながら自ら考える姿勢を身に着けることが重要視されるようになった。こうした、子どもを独立した一個の存在として認め、その一人一人の意見に耳を傾けるという文化が、外国人にはやや理解しがたい、動物園でのキリンの解体ショーを子どもに見せに来るデンマーク人につながったという分析である。

 また、スンデースアヴィーセン の記事でも、「子どものしつけにやってはならない七つの大罪」として、家庭教育について触れている。この記事では、複数の児童心理学の専門家への聴取をもとに、夫婦共働きの忙しい毎日で子どもが言うことを聞かない際にも、親がしてはいけない七つのこと を挙げ、これらの代わりとなる対処案を提案している。親なら誰も心当たりがある「七つの大罪」では、一.体罰を与える、二.怒鳴る、三.叱りつける、四.物で釣る、五.脅す、六.くどくどと説明をする、七.すぐに折れて、子どものわがままを受け入れる、が挙げられている。記事全体としての助言は、頭ごなしに叱らず、毅然として感情的にならずに子どもにメッセージを伝えること、子どもを一個人として尊重し、全体のなかで選択の自由と責任を感じさせることである。

オーフス大学の教授、ペア・シュルツ・ヨアンセンは、現在のデンマークのしつけが自由放任主義と子どもとの交渉がその大部分を占めようになったと見ている。忙しい毎日の中では、さまざまな方法で子どもを黙って従わせたくなるが、叱りつけたり体罰を与えたりしても、子どもは恐れを抱き、諦めることを覚えるだけで何も学ばない。そこでむしろ、自由と権利を与え、同時にそれに伴う責任を与えるというのが現在の考え方である。 やりかたの一例としては、大皿で出される料理を親が取ってやらずに子どもに好きなものを自分で取らせ、その代わりに、自分が取った分は責任をもって残さず食べるようにさせることを挙げている。

こうした家庭のなかで「判断のできる個人」として育てられた子どもが、過度に守られることのない自然の原則のなかで批判的に冷静に物事を見るように育てることが、デンマークでの「家庭教育」の目的ということができる。それは扱いやすい市民を育てるためでもなく、自治体からの手引書もない。むしろ、いかに「子ども扱いせずに、意見を備えた一個人として扱うか」が大きな鍵となっているように思われる。

権威主義的なやり方を捨て民主的な平場の構造へと移行したデンマークでは、教員もクラスメートも、誰もが名前を呼び捨てにするほど、距離感が近い。教育の文脈でよく出てくるキーワードに、共同の(「何々とともに」、英語でのCo-)という言葉がある。「共同責任」、「共同意思決定」といった言葉は、自分が共同体の一部であることの自覚をいやがおうにも促す。そして共同体に参画することで、自分のものである(「オーナーシップ」)感覚を身に着けさせ、そこに愛着を抱かせるのである。日本を振り返って、改めて「愛国心」の意味を再考させる観点であるように感じられる。
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2013年09月16日

「豊かな寄り道」 デンマークの生産学校の今

日本の若者の教育から労働への移行を応援する人々の間で、数年来デンマークの生産学校の実践に注目が集まっており、私自身も例年、視察に行く機会に恵まれている。日本から熱いまなざしが注がれるのに反して、デンマーク国内での扱いは、よいものではない。その実践や現場の努力は見るに値するものがあるが、政策上は優先順位を下げられるばかりである。訪問を通じて年々強く感じられる「有用性」を目指した成果主義などをよくまとめた新聞記事を見つけたので、休日を使って全文を訳出した。なお、本記事タイトルの「豊かな寄り道」は先日の視察の際の、心に響いた参加者の方の感想である。

訳出記事の出典である日刊紙インフォマシオンは、数々の優れた議論を載せている新聞で、他紙がネット上の閲覧も次々と有料化する中、無料で全文公開(しかも当日あるいは翌日から)という鷹揚さである。4週間試し読み無料や、学生の購読料は半額などの特典もあるのでぜひ購読者を増やして、今後も頑張ってほしい新聞社である。

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「私たちは最大でひとつのごみ箱でなければならない」

政府が中等教育への入学(成績の)要件を厳格化したら、そこからこぼれ落ちる若者が出るということは誰も話さない。代替として準備されている生産学校は魅力的にありすぎてはならない。なぜなら、回り道を必要とする若者のためにお金を払う人はいないからだ。
メッテ・リーネ・トーロップ記

アイア・ソフィア・コヴェリー・チュランは、政府のこれからやってくる中等教育改革を巡るディベートにほとんど登場しない種類の若者の一人だ。彼女のケースは成功例の一つだというのに。彼女のケースは、来る中等教育改革において政府が入学に際しての成績要件を導入しようとしていることで、職業学校に今後入学できなくなる見込みの若者に別の道を示すことができるのだが。
16歳の時に、アイア・ソフィア・コヴェリー・チュランは両親の元を出て、御しきれない創造性のアカデミー、アフックで勉強する必要があった。彼女は、そこで生徒として、経済的な支援を受けながら、これまでいつも将来仕事にしたいと考えていた創造的なことをしながら力をつけていくことができた。今、彼女は19歳になり、来月からコペンハーゲンの芸術学院で勉強を始めることになっている。
「アフックでは、自分にいい考えがあって、それに熱心に取り組むのであれば、先生たちは自分にそれをやらせるためにどんなことでもしてくれるとわかりました。その後に役に立った人との出会いもたくさんありましたし、のちに自分の活動へのフィードバックや良いアドバイスをくれるような、先生や進路カウンセラーたちとの緊密な関係を築くこともできました。まだそんなに大人じゃない時に、(先生たちが)そんな風に真剣に取り合ってくれるというのはサイコーです」と、最近アニメーションに興味を持ち、インスタレーションアートを作っているアイア・ソフィア・コヴェリー・チュランは述べる。
生産学校やその他のインフォーマルな教育は、アイア・ソフィア・コヴェリー・チュランのように教育制度をまっすぐに進むのではない、つまり中等教育に進む準備ができていなかったり、それをドロップアウトしたりした、少なからぬ数の若者たちを助けるものになっている。
こうした教育課程の目標は、若者に中等教育に進学する準備をさせることや、一般的な仕事に就かせることである。
(職業学校への)入学要件が厳格化されるのであれば、こうしたタイプの教育がもっと用意されている必要がある。ポリティーケン紙によると、政府は(若者が)成績要件を満たさなくて入学できる道を二つ用意するとされている。一つの可能性は、生徒がすでに実践の場所を確保している場合だ。もう一つの方法は、面接と入学テストだ。しかし、実際にはこの制度は、目的とするグループのごくわずかを入学させるに過ぎない、つまり中学校の国語と数学の試験で最低一つは2がついているような(成績の悪い)グループは入れないことになる「抜け穴」となるという。
「入学要件の導入というのは、中学校を卒業しても中等教育課程に入ることができない若者をたくさん生み出すことにほかなりません。でも、新しく課されたこの要件を満たさない人たちにどんなことが起こるのかというのは、今の段階では何ともいいがたいのです」、ロスキレ大学の教育研究者のレーネ・ラーセンはいう。
こうした(学力的に)弱い生徒たちに焦点が当てられないことに、ノアブロにあるオーガニック生産学校の校長であるシセ・カールセは悪態をつく。
「職業学校からドロップアウトする46%の人たちの声は、どこにも反映されないのです。労働市場に参画する準備ができていることが何よりも大切であり、それに向けていつだって努力しなければならないとそんなことばかり言っている。どんな人も中流階級の若者であることが期待されている。政府は、読み書き算ができる子のことしか考えていない。ちゃんとやっていけて、ちゃんとした文化的な教養も身に着けた子たちのことです。でも、休息が必要だったり、何らかの事情によって(社会的に)排除されたりしている子たちはどうなるのです?」と彼女は言う。

回り道の必要性
教育大臣のクリスティーネ・アントリーニは、長い間待望されていて、ようやく導入されるフレックス教育が、(職業学校に)入学要件を導入することによって中等教育に入学できなくなる若者たちに向けた教育になると考えようとしている。だが、その教育の中身についてはまだ大臣は明らかにしておらず、メディアにもまだほとんど流れてきていない。しかし恐らくのところ、既存の教育制度のなかから様々なモジュールを組み合わせるようなものになると予想される。
加えて、義務教育を終えてから職業学校にすぐ入学する最も若い生徒たちには、「若者年」あるいは「基礎年」といわれる基礎課程が導入されるようになるといわれる。その一方で、職業経験のある比較的年を取った生徒たちは急いで修了することになる。
しかし、いずれにしてもこうした新しい可能性は既存の教育のうえに構築されることになる。しかしそれでは、将来の進路を明確にするための休息やオルタナティブな形の教育を必要としている若者には何も変わらない、とオーフス大学教育学部准教授のソーアン・ランガヤーは主張する。ソーアン・ランガヤーによると、学力と労働市場への準備ができていることへのフォーカスが通常の教育制度の中でますます強まり、そのことがさらに多くの若者を立ち上がれなくしている。こういった人たちが必要としているのは、人生の方向性を見つけ出すための休息を得ることなのだが。
ソーアン・ランガヤーは、制度というものがいわば自身の問題を作り出す要因の一部となっていると主張する。
「生産学校は、一種のセカンドチャンス・スクールなのです。(学校と同様に)目標に向かっている側面はありますが、もう少し緩い制限があり、もう少し小さめの学級で、施設らしくない。だから、生産学校は中等教育からのドロップアウトの問題の中で中心的な役割を担うのです。だが、こういった種類の寄り道を避けるべきだ、という人もいるわけです」
オールボー大学の若者研究センターのノエミ・カツネルソンは、政府の進める政策の傾向に同様のものを見る。
「以前の(自由・保守党連立)政府は、特別な若者のために特設された、個々人のコースに焦点を当てていました。新しい(社会民主党連立)政府はすべての若者に通常の教育制度に入学させており、すべての人が何らかの能力を身に着けなければならないと考えているように見えます」と彼女は言う。
生産学校はこの間に、もっと多くの生徒を得たいというメッセージを出している。教育省から2009年に発表された最新の数字では、生産学校に通った若者の3分の1がその後に通常の教育課程に入ることに成功したとされている。生産学校2010年発表のものは、当時の78校の生産学校のうち61校にアンケート調査をしたもので、生徒の41%が直接何らかの形の教育課程に進学したとされている。
「何かをやってみて、自分の人生で何をしたいかが明らかになるまでにとても長い時間がかかる若者もいるのです。こういった人たちは、急がせてダメにしてしまうのではなく、意欲を与えてくれるような効果のある中間ステージに立つ必要があるのです。ますます多くの若者がこうした社会のプレッシャーの中で、いいところを見せなければならないというプレッシャーがあまりないモラトリアムを求めているのです。生産学校は小さな寄り道でもありますが、前への一歩となりうるのです」とソーアン・ランガヤーは言う。

新しいチャンス
ノアブロゲーデ32番地にあるエコ・カフェは中庭の奥まったところにある。(ここは)オーガニック生産学校の一部だ。何もかもが高品質で輝いている。真っ白いテーブルクロスの上に載せられた焼きたてのチョコレートコーティングされたケーキから、壁のガラスのモザイク模様、キッチンで湯気を上げているランチの品々まで。
「木を使って仕事をするのが大好きなんです。中学校では大していい成績ではありませんでした。でも、手を使って何かをすることはできたんです。すでに中学校の段階で、自分はこれで評価されたいと決めたんです」、と大工のコースに参加している21歳のアンドレアス・ルノウ・ハンセンはいう。彼は注意欠陥障害を持っていて、他の生徒とうまくいかなかったり、教員の数が足りないために十分なサポートを受けられなかったために、ヒレロドの工業学校をドロップアウトした。
生産学校の大工コースでは自分自身のプロジェクトをもっており、より多くのサポートを受けつつも、もっと自立してそれらに取り組むことが許されている。アンドレアス・ルノウ・ハンセンは、これによって、ヒレロドの元の学校に戻って教育課程を修了するに不足していた二つのプロジェクトを終わらせるチャンスをもらったため、(生産学校に行ったことを)成功と感じている。
アンドレアスはこの学校にすでに数か月通っていたが、16歳のマルテ・ソマールンドにとってはこの日が初めての登校日だった。彼は9歳のころからプログラミングをしていて、職業学校のウェブインテグレーターの課程に通っていたが、ほかの生徒たちが自分よりも年上で、授業に自分とは違う期待を抱いていた。
「僕は彼らとは違うところにいるのを感じました。僕自身は、大麻乱用や、統合失調症の診断を受けた過去から抜け出した今、これから新しい友達を得て、人生にエンジンをかけてくれるものとしてこの教育を必要としていました」、とマルテ・ソマールンドはいう。彼はいろいろなところでこの生産学校と共通点を持つオルタナティブな環境で育ったため、このオーガニック生産学校を選んだという。
「でも僕のように田舎の街出身の人にとっては、生産学校に通うことはタブーなんです。負け組ってことになってしまうから」と彼は言う。
「そう、本当ですよ。でも生産学校は負け組の学校じゃない」アンドレアスが話に割って入る。「先に進むためのエンジンをかけるもの、可能性なんです。本当の世界が動いているやり方とうまく連動したものを学ぶところなんです。すごくたくさんの人がわかっていないけどね。ここでは本当にたくさんの自立性、時間やサポートを得られます」
マルテ・ソマールンドの進路カウンセラーは彼に10年生の試験を受けてほしいと考えていたが、マルテ自身はそれができるとは思えなかった。彼はむしろ、特設された中等教育コース(STU)の入学許可を待つ間に、生産学校に通いたかった。
「実は、(何をしたいと)声を上げることが大切なんですよ」アンドレアス・ルノウがマルテに向かって言う。「君は9歳の時からプログラミングをしていた。もちろん教科書に載っている知識もいいけれど、必ずしもそれだけが評価されるものじゃない。(だけど)高校の教育が扉を開けるための唯一の方法になるときもある」
アンドレアス・ルノウ・ハンセンは生産学校に登校しないと給料が天引きされることを説明してくれた。それでも、彼もマルテ・ソマールンドも、給料をもらうためだけに生産学校に通う人もいると同調した。
「生産学校を厳しくしすぎないように気をつけないとならないでしょう。それによって、(目標である中等教育を修了するまでに却って)より長い時間がかかってしまう人もいますから」とアンドレアス・ルノウは言う。

金勘定の考え方
それでも、アンドレアス・ルノウもマルテ・ソマールンドも生産学校に入学を許されたということを喜ばなければならないだろう。
というのは、中等教育の入学要件が厳しくなるとこうしたオルタナティブな教育への必要性が増すだろうと専門家が見込む一方で、政府の財政予算案では生産学校は1億3500万クローネの削減を迫られているためだ。
それに加えて、インフォマシオン紙で以前に伝えたとおり、若者側に準備ができていないにもかかわらず、自治体が彼らを職業学校に送っているという批判もある。職業学校では国がこうした若者の教育費を払うが、生産学校やダウホイスコーレ(通学制のホイスコーレ)の場合には自治体が教育費を支出しなければならないためだ。
最近ではコペンハーゲン市が、青年ガイダンスセンターに若者を生産学校に入学許可を出す場合、経済面での配慮をするようにと求める通知を出していたことが明らかになった。これによって、コペンハーゲン市で生産学校に入学許可という判定を受けた若者は1年間で17%強も減少している。
こうして社会的に排除された若者が、再び負け組としてプレスティージのない教育に落ち着くことになる、とオーガニック生産学校のシセ・カールセ校長は見る。
「これまで過去14年間、生産学校とそこに通う若者たちは様々なものを取りあげられ続けてきました。旅をしてはいけない、創造的にありすぎてはいけないといわれ、常に金のかかるものという文脈で語られます。こうした価値の置き方というもの全体が、若者にも(ネガティブな)影響を与えます。自分たちにちょっとだって期待する人なんてどこにもいやしない、と考えるのです。先日、一人の若者が、生産学校に来るよりも福祉の世話になるほうが実は魅力的だ、と私に言いました。要求されたレベルを満たすことのできない人がなぜ、軽蔑と好奇の目に晒され、より厳しい環境や経済状況に置かれなければならないのでしょう?」 シセ・カールセは、彼女自身若いころ、教育を修了するまで、いくつかの寄り道を必要としていた。彼女は、しっちゃかめっちゃかな子ども・青年時代を過ごし、何年もの間、教育という形に自分自身を入れて考えることができなかった。
「でも、80年代はそれでも全然違いました。シュルター(首相)は素晴らしく、あのころの若者はもっとずっと自由度が高かったのです。もう少しで自由主義者になるほどでした。就労プロジェクトに実験的なものをたくさんの予算をつけたのです。こうした背景で生産学校が大きく育ちました」
しかし、今日の生産学校はどう見ても魅力的ではないと、彼女は認める。
「生産学校は最大で一つのごみ箱でなければならず、学校に来ていいのは最大限に意欲のない生徒たちだけです。生産学校や生徒が密かに誇りに思っているのは、生産学校にお金を払う自治体が学校が魅力的になりすぎるのを恐れているということです。ひどい扱いを受けているグループがいます。こうした人たちが成功を必要としているのです。今の状況を改善するために戦っている人たち、ここから一歩外に出ると資源が足りていない人たちです。こうした人たちにはむしろ、場と承認を与えるべきなのに。これはひどいパラドックスです。」
ソーアン・ランガヤーがこれに補足する。「この議論全体の障害は、(青年の)中等教育への良い移行を実現するために社会が資源を使うのかということなのです。生産学校はもっと多くの生徒を入れさせる代わりに、自治体の金勘定の考え方に異議を唱えようとしています。しかし、入学要件を満たさないような若者のために誰がお金を払うべきなのでしょうか?」

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生産学校とは
・生産学校の目的は、「実践に根差した学習環境を作り、それによって若者を中等教育修了あるいは労働市場の通常の仕事に就かせる能力を身に着けるようにさせること」である。
・デンマークには全国に82の生産学校がある。
・生産学校の生徒は25歳未満で、その多くが中等教育をドロップアウトしたか、いまだに中等教育に進学する準備ができていないかである。
・在学期間はそれぞれだが、年間を通じて入学を受け付ける。一つの生産学校で、最長で一年間までしか在学できない。
・生徒の数は、すべての生徒が一年間通ったとしたら何人になるかとして計算される(「年間生徒」)。2012年の年間生徒は、7569人。
・2013年には生産学校全体の運営予算には7億2270万クローネがつけられていたが、2014年の提案では5億8770万クローネになっている。

出典 生産学校協会、2014年予算案、DR
posted by Denjapaner at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育政策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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