一般医で解決できない問題がある場合に、紹介を受けることで初めて病院にかかることができる仕組だが、病院にかかっても待機期間が非常に長く、すぐに治療してもらえるとは限らない。これを民間の医療施設を使って解消するという名目で始まったのが、治療待機期間保証制度だった(普遍主義原則を手放す、公共医療の行く末 参照)。
公共医療での原則は、「誰もが無料で治療を受けられる」というものだ。前述のように、待機期間の長期化という問題はあったものの、一般医の診察を受けても無料(処方箋をもらう医薬品は有料)、紹介を受けて公立病院にかかっても、事故や緊急事態で救急医療センターにかかっても無料という原則は守られている。しかし、2011年4月からこの原則が曲げられる可能性でてきた(Jyllandsposten, 2010年11月23日)。しかし、これは無料原則が廃止されるからではなく、診療報酬の引き上げを巡って一般医医師会と広域連合が合意できないために、交渉が決裂した場合、患者が一時的に診療費を診療所で支払い、その全額あるいは一部が後で自治体から返還されることになるためだ。医師会側は3%の診療報酬の引き上げを希望している一方、広域連合側は1.5%を提示しているとされる。
それに加えて救急待機医師の待遇を巡っても、このままの待遇を維持したい医師会側と、人件費を抑えるためにも電話対応を医師から看護師に代え、さらに救急医療センターと緊急対応の医師待機制度を合併させることで効率化を図ることを望む広域連合側の要望は相容れないものとなっていた。24時間体制での救急医療を可能とするためには、国民一人当たり年間1293クローナ(約2万円)が費やされており、とくに救急医療センターでの処置は一回あたりで約1000クローナ(約1万6000円)がかかっている。
これを一般医や救急医療という初期医療にかける経費を減らし、地元の公立病院を閉鎖し、広域をカバーしてより高度な治療を可能とする「スーパー病院」を開院するのが今後の趨勢だ。
治療費支払いに関しては、これまでにも患者が(一時的ながら)治療費を払ったことは歴史的に二度あった。一度目は1975年12月1日から1976年4月1日まで。二度目は1984年10月1日から1985年1月6日まで。立替とはいえ、もともと生活費に余裕のない層には診療を受けにくくなるという声はあったが、直接患者が大きな被害を受けるわけではないこともあり、医師会も恐らく勝算あっての交渉となるはずだった。診察を受ける側も大きな実害を被ることがないためか、大きな議論にはなっていないように感じられる。もしも治療費の患者による(一時)支払いが実施される場合には、三ヶ月前に通告が出されるため、すぐに実施が決定されても施行は2011年4月1日からの見込みであった。
デンマーク全国に約3600人の一般医がいるが、そのうちおよそ1100人が60歳を超えている。一般医医師会の会長ヘンリック・ディバーンは、この交渉がうまくいかないようなら、高齢の医師たちが職務を続ける気を失ってさっさと引退するおそれがある(Jyllandsposten, 2010年11月27日)と脅しをかけていた。実際に、ユラン半島のほうでは交渉がうまくいかないことへの反撃として、すでに何人かの家庭医が引退を決定している。全国民にかかりつけ医をつけるためには、すでにおよそ100人の医師が不足しているため、さらにベテランの高齢医師たちが引退すれば、医療の質向上させることを大きな政策に掲げている政府にとって痛手となる。
しかし結果としては、一般医は診療報酬の引き上げを獲得するどころか、引き下げを迫られることになりそうだ(Berlingske Tidende, 2010年12月7日)。政府は報酬引き下げを行うことで、医師たちが現在と同じ給与水準を保つためにより多くの患者を診ざるを得なくなることを予測しており、これによって同じ支出額でより多くの患者の診療を可能にする(=つまり、効率向上をさせる)ことができると見ているようだ…理解しがたい論理だが。
ほんの数年前まで、医療は4つの段階に分かれていた。第一段階は一般(家庭)医、第二段階はそれほど高くない専門性を持つ地域病院、第三段階はもう少し専門性の高い中央病院、そして第四段階が高度に専門化した大学病院という形態だ。これを中央集権化を進めるかたちで地域病院を閉鎖し、5つのスーパー病院を作ることで「効率化」を図ることが今後10年ほどの目標とされている。コペンハーゲンの位置するシェラン島でも多くの統廃合が断行され、それを理由として医師や看護師、介護士の集団解雇が進められている。
イラストはJens Hage氏のブログより
これまで不足があれだけ声高に叫ばれてきた(スウェーデン人を教育し、インド人を「輸入」するデンマークの医師不足の現実 参照)医療従事者でさえ、こうして病院の統廃合を理由として解雇されるようになってきていることがわかる。確かに、就職難は実感としてますます悪化している印象がある。先日聞いた話では、老人ホームの介護士の職に二つ空きが出たために募集をかけたところ、何と数日で400件の応募があったという。低賃金で知られる介護士であってもこうとなると、完全に買い手市場であり、使用者側も「資格を有する」、「近隣に住んでいる」、「小さな子どもがいない(子どもの病気を理由とした病欠は、余計な出費が嵩むため)」、「デンマーク人である」といった様々な条件を設けて、面接に呼ぶ人を絞らざるを得なくなる。ほんの一年程前には、それまで非正規で働いていた職員が妊娠したとわかると、施設側がパートタイムながら正規の契約に切り替えることを申し出て、有給での出産・育児休暇が取れるように配慮していたのが嘘のようだ。
一般医や介護士といった直接日常の中で市民が関わる部分に対する予算が削られ、スーパー病院で多くの機械に予算をつけている現行の自由党保守党政権。しかし、待機リストの短縮という課題が解決されない限り、「誰がスーパー病院で治療を受けることができるのか」という基礎的な部分が残されているはずだが、これは十分に議論されているようには見えない。初期医療の軽視と中央集権化は、医療へのアクセスを巡る格差を確実に拡大されるだろう。普遍原則から医療格差を生み出した現行政権だが(医療費無料の現実と民間健康保険人気という歪み 参照)、地域間格差も併せて生じることになる。そして、2010年12月21日。交渉がまとまった。