世界で知られたデンマーク人で、もっとも評価の分かれる人物といえば、
ビョルン・ロンボルグ(Bjørn Lomborg デンマーク語ではビョアン・ロンボーと発音する)であろう。環境問題の懐疑派として知られ、"
The skeptical environmentalist"(デンマーク語の原題は『世界の本当の状態』が、英語で『懐疑的環境主義者』と改題された)は、多数の言語に翻訳されており、日本語でも『環境危機をあおってはいけない』として刊行され、賛否を巡って大きな反響があったようだ。
2004年のタイム誌で「世界でもっとも影響を与える100人」に選ばれ、最近はまたForeign Policyにも「現代のもっとも偉大な知性100人」に選ばれたビョルン・ロンボルグ(
本人の英語ホームページ)は環境学者でも何でもなく、オーフス大学で統計学を教えていたこともあり、統計学者とみられる向きもあるが、大学で受けた教育は政治学であり、政治学者というのが正しい。2007年に出た最新刊の
“Cool it!”は、デンマーク語を初め、各国語にどんどん訳されている最中であり、日本語版もこの6月に出るようだ。(追記:刊行されたので、以下にリンクを貼っておく。洞爺湖サミット前に出たこともあり、それなりの注目も浴びたようだ。)
彼の主張は、一言で言うと「地球の環境は言うほど悪くない、資金が限られているのだから、環境問題よりももっと費用対策効果のいい別の問題に焦点を当て、投資すべきだ」ということである。日本での彼の著書に対する批判としては、産業技術研究所の
奥修の批判が具体的で信頼に足るが、彼によると日本での批判的な声は多く聞かれないようだ。ロンボルグの議論の正当性はリンクを参照されたいが、本稿では彼の母国であり、彼の主宰するコペンハーゲン・コンセンサスの開催国である、デンマークでの議論を紹介したい。
前掲書『世界の本当の状態』がデンマーク語で1998年に刊行され、2001年にその英訳である『懐疑的環境主義者』が刊行されるやいなや、賛否を巡る議論は世界に伝播した。それを受けて、2002年2月にデンマークの生物学者である、コー・フォー(Kåre Fog)がロンボrルグ批判の中心的人物となり、その著書の科学的妥当性を評議委員会に提訴した。この経緯は、
日本語のWikipediaでもざっと追うことができる。「ロンボルグの主張は処罰に値しない」という最終結論は、デンマーク語を初め、英語でも発表されるなど、国際的な注目を集めた。2003年になってからも640人もの科学者が直接ロンボルグのケースには言及しないまでも、「科学の妥当性を守る」こうした科学的妥当性調査委員会の価値について署名を集めている。今でも、コー・フォーは「
ロンボルグの誤り」というウェブサイトを持ち、英語で精力的に批判を繰り広げている。いずれにしても、ロンボルグがかなり嫌われているのは間違いないようで、主観的だが、私の周りでも大学教授が「その名前さえも口にするな、虫唾が走る!」と言うのを聞いたことがある。
2005年2月からはロンボルグはコペンハーゲン商科大学で、特にコペンハーゲン・コンセンサス(コペンハーゲン合意)のプロジェクトのために働いている。第一回の2004年に「もし目の前に500億円の予算があったら、何に使うべきか」と議論しあったコペンハーゲン・コンセンサスから4年経ち、コペンハーゲンで二回目の
2008年コペンハーゲン・コンセンサス(CC08)として、ノーベル賞受賞者5人を含む一級の経済学者たち8人を呼んでの会議が5月25日から30日まで行われていた。日本でどれほどの注目が集まっていたかはわからないが、とりあえずその議論の結論とデンマークで批判的議論を中心にレポートする。会議は、ロンボルグのよき友だちであるとされる、アナス・フォー・ラスムッセン(Anders Fogh Rasmussen)首相が
オープニングスピーチを行い、外務省が開発援助のための予算、1200万クローナ(3億円弱)を財政支援しているため、政治的な性格を免れない。
2004年のコンセンサスでは、500億ドル(約5.3兆円)という京都議定書の半分に当たる予算があれば何ができるか、というテーマで議論を展開したものである。彼らの結論は、発展途上国のエイズの問題を最優先課題となり、京都議定書や炭素税といった地球温暖化対策は優先順位の最も低い課題と位置づけられた。2006年にもニューヨークのユニセフで、国連大使たちと
CC06という会議が行われたようだが、コペンハーゲンではオリンピックのように、4年ごとに開催する意図のようである。今回は、
ジャグディーシュ・バグワティー、
フランソワ・ブルギニョン、
フィン・キドランド(2004年ノーベル経済学賞)、
ロバート・マンデル(1999年ノーベル経済学賞)、
ダグラス・ノース(1993年ノーベル経済学賞)、
トーマス・シェリング(2005年ノーベル経済学賞)、
バーノン・スミス(2002年ノーベル経済学賞)、
ナンシー・ローラ・ストーキーの8人をエキスパートとして迎え、大気汚染、紛争、病気、教育、地球温暖化、栄養失調と飢餓、衛生と水、援助と貿易障害、テロ、女性と開発という10のテーマに分かれて、論文を発表し、それを論議しあった。
CC08のホームページから、2008年5月30日に出された
報告書によれば、彼らの結論は以下のようになったようだ。以下の合計は、187.5億ドルとなり、それを4年間拠出すると、合計は予算の750億ドルになる。
@発展途上国の栄養失調の子どもへのビタミンAと亜鉛の供給 6000万ドル
B鉄とヨードの摂取による栄養補給 2億8600万ドル
C子どもの免疫強化の徹底 10億ドル
D穀物栄養価の強化 6000万ドル
H地域に根ざした栄養促進 7億9800万ドル
E学校での寄生虫駆除やその他の栄養プログラム 2700万ドル
F就学費用負担の減少 54億ドル
G女子の就学奨励と向上 60億ドル
I女性の再生産役割への支援 40億ドル
J心臓発作への緊急処置 2億ドル
Kマラリアの予防と処置 5億ドル
L肺結核患者の発見と処置 4億1900万ドル
Aドーハ開発アジェンダ 0ドル
○の中の数字が、会議の提案する、費用に対しての便益の高いプロジェクトの優先順位である。分野がまたがっていて見にくいため、ここでは報告書から順序を入れ替え、栄養関連・教育関連・疾病関連・貿易に分類し分かち書きしている。教育の支出が傑出しているのが見て取れる。つまり、栄養失調の問題は、それほど費用をかけずして費用以上の効果が期待できる、「燃費のいい」プロジェクトなので優先させるべき、と結論付けられている。
各紙の反響は、まちまちである。Politikenは自紙のウェブサイトで、読者に開発支援のために何が大切かを投票してもらい、その結果がコペンハーゲン・コンセンサスの提案と全く異なるものであったことを報じている(
2008年5月30日、Politiken)。表は読者のつけた優先順位で、括弧の中の数字は、コペンハーゲン・コンセンサス参加者の優先順位である。
1位 より良い調理コンロ(23位)
2位 ディーゼル車に粒子フィルターを装着(27位)
3位 平和維持軍(18位)
4位 紛争の際に軍による解決努力をより短期間にする(-)
5位 肺結核に対する努力(13位)
6位 マラリアに対する努力(12位)
7位 子どものための栄養プログラム(9位)
8位 教育支援(8位)
9位 CO2の削減(-)
10位 CO2の研究と削減(14位)
11位 塩へのヨード添加(3位)
12位 食品への鉄分添加(3位)
13位 アフリカでの井戸採掘(16位)
14位 浄水(15位)
15位 発展途上国への自由貿易(2位)
16位 より自由な移住(-)
17位 協働強化(-)
18位 軍努力の向上(-)
19位 女子教育(8位)
20位 女性への小規模融資(22位)
記事中から母数は明らかではないのが難点だが、いずれにしても身の回りの日常生活を整えることに焦点が当てられているのが興味深い。
会議の結論を明らかに批判しているのは、InformationとIngenørenである。Informationは、以前のコペンハーゲン・コンセンサスの参加者で経済学者である、
デンマーク国民教会援助(人道援助NGO)の国際部長、クリスチャン・フリース・バック(Christian Friis Bach)を引用し、単純な費用便益分析を通じて待ったっことなるタイプの問題を同列に論じているため、間違った方向に行ってしまう、と断じる。彼は、「アフガニスタンでの戦争と母乳保育のキャンペーンを比較することはできない。太陽の輝いた天気とリンゴのケーキを比べるようなものだ」と皮肉り、「第三世界の貧困層に投資することが割に合うのだということに焦点を当てたことは良かったが、この優先順位では、おなかを空かせた子供たちにビタミン剤を配給したものの、空腹を満たす米がない、なんてことになりかねない」と批判している。さらに、優先順位だけではなく、分析自体も十分ではないとロスキレ大学経済学助教授のトーキル・カッセ(Thorkil Casse)は批判している。彼によると、この分析はネパールの小さなケーススタディを使い、それを世界中の貧困に苦しむ人口に正比例させているというが、ネパールの食、チリの食、アフリカの食など生態は全く異なる。こうした批判は、単純な対投資効果を分析する手法は、世界の優先課題を解決することには使えず、さらに対象となっている人々の実際の思いをよそに、経済学者が何が大切かを決めるのは民主主義的ではない、というところへ至る。前述のクリスチャン・フリース・バックは、ロンボルグの「経済サーカス」(パフォーマンスと見世物というニュアンス)と切り捨てている(
2008年5月31日、Information)。

言われてみるとサーカスの座長に見えてくるビョルン・ロンボルグと、開発大臣のウラ・トーネス(Ulla Tørnæs)。ちなみにロンボルグは公に知られたゲイで、ベジタリアンである。
Ingenørenは、会議へ参加した、イギリス・バース大学の経済学教授であるアニール・マーカンジャ(Anil Markandya)のの発言、「気候問題の優先順位が一番低くなるという、まさに恐れていたことが的中してしまった」を引用し、さらに「このリストは各政府が何かのプロジェクトに資金を拠出するならば何ができるかに特化しており、気候変動といった不確定要素を負ったり、民間セクターの配慮も要するようなものを無視している」という彼の批判から、結論に対する懐疑派の声を描いている。(
Ingenøren、2008年5月30日)。
この会議の政治的な効力と、今後の開発援助へ向けた実際の優先順位への影響が気にかかるところである。2004年の会議の結論で導かれたのは、エイズ・HIVへの対策であったが、この会議の成果かどうかはともかくとして、以来エイズ・HIV予防に関する投資は爆発的に増大したが、結局アフリカのひどく被害を受けている地域には大きな改善がされることもなかったという(2008年5月31日、Information)。こうした点から言うと、世界の経済学者の知能を結集してまで出された結論が、何の影響も与えないということは考えにくい。デンマークの政府は、首相・開発大臣を初め、現役閣僚も会議へ顔を出していることから考えても、この結論を「よりよい世界の構築」のために使いたいという意図はあるだろう。開発大臣である、ウラ・トーネスはこの提案を受けて、会議の結論をもっとじっくりと見てみたいと述べ、実際にユニセフの子どもの栄養のために回すことになっている、5000万クローナ(1億2000万円程度)がある、と早くも具体的な予算の配置を考えている様子である(
2008年5月30日、Politiken)。すぐに実行に移されることはないにしても、デンマークでの予算配置に影響してくる可能性は十分あるだろう。
しかしながら、2009年12月にコペンハーゲンで開催される、
第15回気候変動枠組条約締約国会議(COP15)に向けて準備を進めている、気候・エネルギー大臣のコニー・へデゴー(Connie Hedegaard)は、CO2の排出削減を最重要課題と挙げており、政府の方針が「環境よりも途上国の栄養補給へ」というアジェンダでは国際社会に対して齟齬が出る惧れがある。コペンハーゲン・コンセンサスは、コペンハーゲン商科大学が行った国際会議であり、政府の方針を(必ずしも)反映するものではないということなのだろうが、この先への影響力も考慮しなければならないだろう。デンマークではこれまで、特に社会民主党のイニシアチブもあり、風力発電に対する財政支援なども多く行われてきたが、2001年の政権交代から風車設置に対する補助金が下りなくなった。それでも、市場原理に基づいてうまく運営されている自治体もある(
コペンハーゲン便りの2008年5月の記事を参照されたい)が、いずれにしても環境に対する優先順位が以前と変わってきており、さらに政治的な問題として扱われつつあることは間違いない。
やはり、こうした双方にいい顔をした政府の方針に突っ込みたい気分は覚えるもので、2008年5月16日には(たった45分間のようだが)、
環境相コニー・へデゴーとビョルン・ロンボルグの論戦が行われたようである。しかも、議論リーダーとしては、やはり本記事に上げたロンボルグ批判派のクリスチャン・フリース・ベックが就くということであるから、かなり面白かったのではないかと思うのだが、その後テレビ、ラジオにも流され、記事にもなったようだ。
Berlingske Tidendeによると、気候に対する対処が必要なことは双方ともに同意しているが、それを「今すぐに(コニー・へデゴー環境相)」とするか、「長い目で見た時に(ビョルン・ロンボルグ)」という違いということである。5月になってから記録的な暑さが続き、歴史に残る連続日照時間を記録しているデンマークでも、気候に明らかに何かが起こっているようにも実感されるが、あと100年はもつでしょうからと考えるのと、今一人ひとりが何とかしなければと考えるのと、どちらが正しいのかは「太陽のみが知っている」のだろう。