2014年06月10日

自由放任とそれに付随する責任:デンマークのしつけと世界観

 更新をさぼっているブログであるが、先日、公益社団法人日本教育会から依頼を受けて、二号にわたってデンマークの教育に関して原稿を書かせていただいた。ようやくどちらも公刊されたので、ブログで公開する。(『日本教育 平成26年4・5月合併号』、pp.24-25より)

 デンマークでは、家庭教育という言葉に相当する概念を見つけるのは難しい。しかし、いわば学校で学ぶ教科学習以外の、子どもが身につける技能が「家庭教育」に期待される役割とすると、そういった世の中の合意のようなものは存在する。本稿では、メディアで触れられる記事を紹介しながら、デンマークのしつけや子ども観を紹介する。

 今年の二月、コペンハーゲンの動物園で、近親交配を防ぐという理由で、一頭の健康な1歳半のキリンが殺処分された。その数日前から、何の病気もなくまだ若いキリンが殺されるというニュースは世界中を駆け巡り、各地の動物愛護家からの取りやめ嘆願書や、他の動物園からの引き取り願いの話も出ていた。しかし、動物園側は予定通り殺処分を実行し、一般公開し子どももいる場でキリンを解体し、その肉をライオンなどの餌として与えたことが世界に衝撃を与えた。

 これにより、動物園をボイコットしようという呼びかけや、園長への脅迫なども伴った批判の声が出てきたが、解体して餌にするとなど、まったくもって理解不能、「デンマークはたぶんヨーロッパでも最もどうかしている国だ」(カナダのポール・ワトソン 反捕鯨活動家)という諦めにも近い声を含め、聞かれた批判の多くは外国からの非難であり、日本でもこのニュースは報道された。

 日刊紙インフォマシオン は、このキリンの殺処分からデンマークの世界観を解釈している。オーフス大学教育学研究科教授、ニン・デ・コニンク・シュミットによると、子どもは抽象的な概念を具体的な事象や現実の例と出会いながら学ぶのが最適だという考え方がデンマークにはあり、これはペスタロッチ教育学に端を発するという。そのため、このキリンの殺処分・解体の例も、デンマークの子どもたちにとっては、自然がどうした原則で動いているかを一個の人間として見つめ、その世界観のなかで育っていく。「子どもを常に守り、幼児扱いする他の国とは一線を画する」とコニンク・シュミットは語る。オーフス大学で児童文学センター長を務めるニナ・クリステンセンも同意見であり、アメリカやイギリスを中心とした国々では、動物を愛らしいものとしたロマンチシズムに根差している一方、デンマークでは啓蒙時代に築かれた、自然に出て行き、その観察の中から学ぶという思想に根差していることを指摘する。

それに加えて、三〇年代に発展してきた改革教育学の影響も大きい。子ども自身の発達を出発点として、そこから意思決定の主体として子どもの意見を取り入れていく。教員などの権威が一方的に教えるものを常に正しいと受け取るのではなく、そこに批判的・懐疑的な姿勢をもって民主的に参加しながら自ら考える姿勢を身に着けることが重要視されるようになった。こうした、子どもを独立した一個の存在として認め、その一人一人の意見に耳を傾けるという文化が、外国人にはやや理解しがたい、動物園でのキリンの解体ショーを子どもに見せに来るデンマーク人につながったという分析である。

 また、スンデースアヴィーセン の記事でも、「子どものしつけにやってはならない七つの大罪」として、家庭教育について触れている。この記事では、複数の児童心理学の専門家への聴取をもとに、夫婦共働きの忙しい毎日で子どもが言うことを聞かない際にも、親がしてはいけない七つのこと を挙げ、これらの代わりとなる対処案を提案している。親なら誰も心当たりがある「七つの大罪」では、一.体罰を与える、二.怒鳴る、三.叱りつける、四.物で釣る、五.脅す、六.くどくどと説明をする、七.すぐに折れて、子どものわがままを受け入れる、が挙げられている。記事全体としての助言は、頭ごなしに叱らず、毅然として感情的にならずに子どもにメッセージを伝えること、子どもを一個人として尊重し、全体のなかで選択の自由と責任を感じさせることである。

オーフス大学の教授、ペア・シュルツ・ヨアンセンは、現在のデンマークのしつけが自由放任主義と子どもとの交渉がその大部分を占めようになったと見ている。忙しい毎日の中では、さまざまな方法で子どもを黙って従わせたくなるが、叱りつけたり体罰を与えたりしても、子どもは恐れを抱き、諦めることを覚えるだけで何も学ばない。そこでむしろ、自由と権利を与え、同時にそれに伴う責任を与えるというのが現在の考え方である。 やりかたの一例としては、大皿で出される料理を親が取ってやらずに子どもに好きなものを自分で取らせ、その代わりに、自分が取った分は責任をもって残さず食べるようにさせることを挙げている。

こうした家庭のなかで「判断のできる個人」として育てられた子どもが、過度に守られることのない自然の原則のなかで批判的に冷静に物事を見るように育てることが、デンマークでの「家庭教育」の目的ということができる。それは扱いやすい市民を育てるためでもなく、自治体からの手引書もない。むしろ、いかに「子ども扱いせずに、意見を備えた一個人として扱うか」が大きな鍵となっているように思われる。

権威主義的なやり方を捨て民主的な平場の構造へと移行したデンマークでは、教員もクラスメートも、誰もが名前を呼び捨てにするほど、距離感が近い。教育の文脈でよく出てくるキーワードに、共同の(「何々とともに」、英語でのCo-)という言葉がある。「共同責任」、「共同意思決定」といった言葉は、自分が共同体の一部であることの自覚をいやがおうにも促す。そして共同体に参画することで、自分のものである(「オーナーシップ」)感覚を身に着けさせ、そこに愛着を抱かせるのである。日本を振り返って、改めて「愛国心」の意味を再考させる観点であるように感じられる。
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2008年06月02日

自立心を育てる教育と「甘い」家庭のしつけの間に

デンマークの子どもの成長にとっての一番大切な達成課題は、「自立した人間になること」であろう。学校でも家庭でも、自立した個人として一人前になるにはどうしたらいいのかを学ぶことがもっとも大切にされている。そのため、日本のように、他人がどう思うか、といった「空気を読む能力」は必要とされず、臆することなく自分を表現することに主眼を置くことになる。

以前に、大学に前・統合大臣リッケ・ヴィルスホイ(Rikke Hvilshøj)が来て講演をし、学生とディスカッションする機会に立ち会ったことがある。日本だと、大臣に質問するとなると学生側にも「賢い質問」をしなければならないという気負いがあったり、下手したら講演を主催する側も事前に(危険な領域に入らないような)「仕込み」の質問者を用意したりと画策さえされるように思うが、デンマークでのこうした機会は実にオープンであり、学生も遠慮なく批判や「初歩的な質問」をぶつける。常識的なことを質問して、「初歩的なことさえも知らないやつだ」と他人に軽んじられないだろうかと恐れ、「君子、危うきに近寄らず」といった態度は全くなく、話の腰を折ってでも遠慮なく意見をぶつける様子には、その堂々とした自立振りに感心させられることが多い。

また、成績評価システムが13のスケールから、国際化に対応した12のスケールに変えられたことは以前に書いた(進学状況から見える現実 参照)が、ここでもこれまで「デンマーク式」で与えられていた最高評価の「13」は、自立した学習によって獲得された高度のパフォーマンスに対して与えられる評価であり、学校で習ったことだけであれば、すべて事細かに覚えていても決して与えられることのないものであり、それゆえに積極的学習態度を褒め称える意味があった。そのため、13という評価を得ることは誇りであったが、テストの成績の良い上から10%が自動的に12という最高評価を得るという相対評価のシステムは、未だに学生たちにとっても受け入れがたい気持ちもあるようだ。

しかし裏返せば、この自立の代償は、他人を省みずに自分さえ良ければ、というミーイズムや個人主義につながりがちである。実際に生活していても、例えば日本のように「辛抱強さ」を美徳とする文化とは異なり、「嫌だ」といえば「ああそう、じゃあ止めなさい」という調子で、「辛いけれどもう少し我慢して頑張る」ということもなく、「それがあなたの決断なら、尊重しますよ」というもっともな理由付けによって、断たれてしまうのである。入院している患者も、「病院は退屈で嫌だ」と無理に退院してしまえば、それは尊重されるべき「本人の意思」であるため、本人のためにいかに必要であっても無理強いされることはなく、結果的に本人の不利益になることもある。

メディアの議論で、よく使われる世代描写に「68世代(「プラハの春」の頃に学生運動やヒッピーを経験した世代。1943-51年生まれ)」、「ふ〜ん世代(へ〜ぇ、ふ〜ん、と前の世代が批判的に受け止めた事象をそのまま受け入れる無批判な世代。1961-1969年生まれ)」、「Y世代(「新人類といわれた「X世代」の次に当たる世代。1979-1987年生まれ)」があるが、とくにこの若い「Y世代」は失業率の低下から「売り手市場」になっている今、“多少の”わがままを受け入れてくれないなら辞めてやる、といった調子で、これまでに考えられないほど甘やかされながら育っているとUgebrevet A4の統計は示している(2008年5月24日、Politiken)。「どの世代がもっとも甘やかされているか」というこの調査は、68世代(12%)、ふ〜ん世代(3%)、Y世代(48%)、世代という括りは無理だ(20%)、わからない・それ以外(18%)となっており、今の労働市場に入ったばかりの若者たちが甘やかされている実感があることを物語っている。

こうした自立した個人を育てる社会が、創造性のある人間を生み出す一方で、権利を当然のものとして傍若無人な行動に出る甘えた若者たちを多く生み出した側面もある、と私は考えているが、政府の論理では、若者による行き過ぎた行為は家庭の管理責任が十分でないことが原因であり、親の自己責任として経済的な処罰につながるようだ。

以前、学校のズル休みは親への罰金 でも書いたように、子どもの素行を家庭のしつけの問題による自己責任として、正当な理由なく学校を長期欠席をした場合や、子どもが公共物を破壊したりした場合には、親が児童手当を受け取れなかったり、損壊物を弁償する責任を問われるようにすべきだ、と与党自由党の権利部門スポークスマンのキム・アナセン(Kim Andersen)は、提案を出した。さらに、子どもが犯罪を犯した場合には親に経済的罰を加える、つまり罰金を科すといった議論にまで発展してきており、こうした少年犯罪と処罰を巡っての議論が、国会で2008年6月3日に行われることになっていると報道があった。

2008年5月31日のPolitikenによれば、自由党は少年犯罪を厳罰化する数々の提案を進めているようだ。自由党議員のギッテ・リレルンド・ベック(Gitte Lillelund bech)は、「すぐに刑務所へ送れとは言わないが、そもそも15歳未満であれば、家族から引き離されて児童養護施設に送るという措置しか選択肢がない。そうなると、処罰年齢制限があること自体、どうなのかと思う」と疑問を提示し、最低処罰年齢の廃止さえも念頭に置いた発言をしている。(若者の暴動や少年犯罪から、親の管理責任を問う声は、とくに2007年2月の集団放火事件などを理由として強まってきていることは、幸福な国に住む、不幸な親と不幸な子ども においても載せた。処罰最低年齢についても同記事で触れている)

やはり自由党のソーアン・ピン(Søren Pind)は3ヶ月ほど前に、犯罪を犯した12歳以上の子どもはGPS機能の付いた腕輪を身に付けることを義務付け、警察が24時間監視できるようにすべきだと自分のブログで主張し、さらにギャング団に所属するような犯罪者は普通の国民よりもさらに厳しく罰せられるべきだ、と刑法基準の統一適用を覆すラディカルな持論を展開した。左派は当然これを行き過ぎとして強く非難したが、同様に自由党の中でもまだ熟さない議論であったようで、アナス・フォー・ラスムッセン首相も、「自由党の統一見解ではなく、ソーアン・ピンの個人的見解だ」と距離を置いた(2008年2月19日、Politiken)。さらに、こうした議論は、まず党内で合意を取ってから公に議論すべきなのに、それがなされなかったことで党内でも反発を招き、彼は権利部門のスポークスマンというポストから更迭され、キム・アナセンに取って代わられた経緯があった(外務部門のスポークスマンのポストはそのまま保持されている。2008年2月19日、Politiken)。そして3ヶ月経った今、党内での論議を経て、キム・アナセンの上記の提案が国会へ出される次第となったのである。

デンマーク国民党は、少年犯罪の厳罰化に賛成の立場であり、今回の提案がはっきりと最低年齢の議論でなく、親の管理責任を問うての罰金に関するものだが、「とりあえずは正しい方向への第一歩」として賛成票を入れる考えのようだ。ソーシャルワーカー組合は、こうした措置が何の抑止効果も生まず、若者をさらに犯罪に引き込んでしまうだけと批判する。オーフス大学の犯罪学者であるアネッテ・ストアゴー(Anette Storgaard)は、「犯罪を犯した時に処罰をされるだけではなく、さらに自分の責任(領域)を取り締まって、処罰をされうるというのはデンマーク社会では非常に異例だ。これは全く新しい考え方だ」としている。

Politikenによるキム・アナセンのインタビューによると、この提案の意図は、刑務所に入るという本人、友人、家族の誰にとっても忘れられない体験によって、「社会が若者たちをしつけし直す」ことにあるという。自由党の提案は、これら親への罰金のほか、初めて執行猶予判決を受けたものは刑務所訪問に行き、実際に生活がどんなものなのか見学する、「週末の受刑者(週末の夜に若者が繁華街で問題を起こすことが多いため、そうしたことを防ぐため、週末には隔離する)」の導入など、ドラスティックな提案が数多く出されており、議論の行方が気になるところだ。

日本でもこの10年ほど少年犯罪など似た議論の流れから、家庭教育の必要性が強く説かれるようになり、社会教育法、教育基本法の改正がなされたことは記憶に新しい。批判の多くは、公権力が家庭という私領域に立ち入ってくることに対する警戒であった。今回出されたデンマークの自由党の提案は、むしろ家庭へ介入することなく、問題をそのまま家庭へ起因させて、保護者を罰すると同時に、「悪い」家庭・家族の存在を無に帰すことをポジティブに捉える言説である。家庭・家族の存在そのものを「誤ったもの」として、経済的社会的制裁を加え、さらに法の名を借りて「だめな親」の代わりに「しつけし直す」というのは、人間を信じない社会の傲慢ではないか。若年者の犯罪において重要なのは、虞犯少年の犯罪抑止であり、一時の過ちを理由に社会から家族とともに一生の傷(「刑務所に入るという一生忘れない体験」)を負わされることではないだろう。ソーシャルワーカーなどとの連携等を通じて、悩みを抱える家庭に問題解決の糸口を与えることが、国からできる積極的介入であり、「親代わりに社会が罰を与えることがしつけ」という論理は厳しく批判されなければならない。
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2008年04月07日

学校のズル休みは親への罰金

2008年4月6日のPolitikenで、正当な理由(病欠、学校と約束しての旅行休暇など)のないまま、長期間にわたって学校へ出席しない生徒がおり、それに対して教育大臣ベアテル・ホーダー(Bertel Haarder)は、生徒の親への罰金で対応する措置を今週中にも提案する、という衝撃的なニュースを読んだ(教育省のページに詳細な記述あり)。記事によると、多くの生徒たちが、年間20日以上という長期間を正当な理由なく学校を欠席する状態があり、事を深刻に捕らえた大臣が、Muusmann Research and Consultingという外部コンサルティング会社に依頼し、その現状と対策を分析させたものが、2008年1月にレポート、「長期間にわたって授業を受けない子どもたち」(PDFファイル)に帰結した。年間20日以上長期欠席をしているのは、生徒全体の1,2%に当たり、デンマーク国内に換算すると6,300人程度となり、25人学級を原則とするデンマークでは、ほぼ4クラス当たりに1人が該当する計算になる。

彼らの調査によると2006年9月1日から2007年4月30日までの間に、市町村、小中学校の学校長などに対して質問紙調査を行い、学校の56%から、市町村の72%から有効回答を得たという。うち、欠席日数が20日から40日、41日から65日、66日から90日、90日以上という4つのカテゴリーに分類した。回答のあった学校の生徒の長期欠席率をデンマーク国内全体で換算すると、6,300人が相当することになり、このうちのさらに8%(つまり500人程度)はこの期間内に90日以上欠席したことになる。7年生から9年生(いわゆる日本の「中学生」)がドロップアウトしてしまう危険性が最も高く、その割合は76%にもなり、うち41%が女子、59%が男子生徒である。 

自宅に住んでいる未婚の子どもを抱えた親には、通称「子ども小切手」と呼ばれる児童手当が、18歳未満の子どもに親権をもつ親(基本的には母親に対して支払われるのが普通)に対して、四半期毎<つまり3か月分まとめての額>に支払われる。(2008年水準)
0−2歳 3,539kr(約81,000円)
3−6歳 3,198kr(約73,000円)
6−17歳 2,516kr(約58,000円)
*より正確には、自宅には住んでいなくて寄宿生活をしているような子どもの親にも支払われるが、親の生活に問題があり、施設生活をしているような子どもの親には支払われないという規定がある。

これを子どもを学校へ通わせない親に対しては自動的に天引き、あるいは支払わないようにして、罰則を加えようという提案なのである。デンマーク国民党からは既に1週間の不当欠席で2,000kr(5万円弱)の罰金にしようという具体的な提案が出たり、ホーダー教育大臣も「態度が悪かったり、物を壊したり、学校に通わなかったりする生徒やその親に対しては、更なる措置の必要」を検討したい、とBerlingske Tidendeに対して語っている。

上記報告書は、どれくらいの数の生徒が長期欠席しているかという状況を調べたものであるが、それによって罰金措置を取ることを奨励はしていない。数を「科学的データ」として盾に取った政治家たちが、とくに社会的・家庭的背景から問題行動を取りがちな二言語児を親とともに罰することに繋げようとしているように見える。なお、この「二言語児」という言葉は、英語では「バイリンガル」となるが、「二つの言語に流暢な」といったポジティブな意味ではなく、「別の言葉を母語に持ち、国語(デンマーク語)力に劣りの見られる」といった感じに、家庭に移民背景を持つ子どもに対してネガティブなイメージを持って語られるのが普通である。

Haader og Mary.jpg

いじめなどの問題も顕在化してきて、「一緒にいじめに対抗しよう」といったイニシアチブを初めとして、「子どもを救え!」(写真が見られます)でも人気のあるマリー王妃(Kronprinsesse Mary)を出して、子どもたちにいじめはいけないといったキャンペーンを行うなど、メディアでも語られるようになってきている。王妃が裕福な層のデンマーク人の子どもばかり通う保育園へいって、国旗を振って歓迎する子どもたちにぬいぐるみを渡して「いじめはだめ」と語りかけることで実際にどれだけの有効性があるのかということは問われるべきだと思うが、キャンペーンとしてはそんなものだろうか。

いじめや社会的背景から学校へ通うことができない子どもに対して、罰金で縛りつけて、「修了」という数値目標の達成ばかりを考えているのは明らかに筋違いである。Politikenの記事にある学校の校長の話として載っているが、「助けを求めている子どもはいるけれど、罰則を求めている子どもはいないのだ」というのが現状を物語っている。自己責任の名の下に、弱者を救い出す道を閉ざし、さらなる締め付けを行おうとする政策には反対しなくてはならない。

現在の状態でも、すでに「子ども小切手」から天引きするようなやり方はシステム上可能であるようだが、まだよほどのことがないとそれほど着手されていないのが現実のようである。Politiken、2008年4月6日の一面のコラムは以下のように結んでいる。
(前略)何よりもまず、学校へのうんざりした気持ちと、若者を遠ざけている教育への失われた敬意を何とかしないとならないだろう。ならばなぜ、アウトリーチとしての両親への協働やモチベーションを高めるような学校活動といった、既存のよい経験に耳を傾けようとしないのか。もちろん、これらは簡単な課題ではない。しかし、課題を自らより難しくすることから始めては、簡単になるはずはない。
なぜ、子どもたちが長期欠席という「楽しくない」現実を積極的に選択しているのかという事実に目を向け、不十分な点に対する対策を考える必要があるといえるだろう。
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2008年03月21日

実践経験での学びは理論学習に駆逐されるのか

以前に、進学状況から見える現実において、大学への進学を希望する生徒たちが、どのように進路を志願し、入学許可されるかを書いたが、今回はこの通常の志願法ではない、「第二の志願法」について紹介したい。先述の記事に書いたとおり、デンマークの大学入学に関する合否の判定は、高校の卒業試験の結果を以って行われる。これまではすべての教科の成績が13ポイントのグレードで評価されていたが、それが国際化の影響で12ポイントへと変更されたことも書いた。もちろん志願数と定員数などとの兼ね合いもあるが、このグレードの平均点が、志願大学の志願学部の要件(年により多少上下する)を満たした場合に合格となり、合否が7月の終わりに通知されるという仕組みである。この志願方式は「クウォート1」といい、入学者の大部分に適用される方式である。(大学の入学定員の80%、今年からは90%に適用される。)

それに対し、「クウォート2」というオルタナティブな志願方式がある。日本でも推薦入試や一芸入試アドミッションオフィス(AO)入試などの代替の方式があるが、それらに照らすとAO入試に近い。適用される数は、これまで入学定員の20%であったが、今年から10%に減らされた。志願締め切りは3月15日であり、つい先日締め切られたところであるが、結果はクウォート1の生徒たちと同様、7月終わりに通知される。

このオルタナティブな志願方式、クウォート2は、教科成績だけによらない方式で夢の進路に進めることを可能とするように、1992年に開始された。基準を満たせば誰でも応募することができるが、教科成績ではなく、何を評価するかというのはそれぞれの大学の学部が決めることができるため、重点はそれぞれ異なり、志願者はそれに沿った要件を満たす必要がある。志望動機を書いた書類も非常に大きく影響するため、志願者は練りに練った志願書を作らなくてはならない。

教育省の管轄する教育ガイドという進路指導のためのホームページによると、教科成績のほか、進学したい専門に関連した教科、その他の教育(資格を持つなど)、就業経験、ボランティア経験、フォルケ・ホイスコーレという寄宿学校での滞在経験、外国滞在経験(もちろん旅行ではなく、アルバイトなどの就業経験)などがカウントされるという。これらは、すべて書類にて証明しないとならないため、「どこの学校で行われる英語のコースに参加した」などの記載とともに、終了証を提示したり、外国で行われた経験であっても、飛行機のチケットやパスポートの出国入国スタンプ、そしてコースが週に何時間行われた、等をすべて証明する必要がある。また状況に応じて、志願する先で面接試験なども実施される場合もあるようだ。

このオルタナティブは、卒業成績が夢の進学先の基準には届かないものの、諦めたくない生徒が、卒業後に実社会で経験を積むことで経験値を上げ、志願する際に使われる。そのため、リベラルな教育の危機にも書いたように、高校卒業後にバックパッカーをして、世界中を回ったりしている若者が多くおり、デンマークでは若者が教育を修了して、労働市場に入る年齢がヨーロッパの中でも最も高い。Daily rushという若者の集まるニュースサイトの掲示板では、「クウォート2を使って、医学部に志願した人いる?」という書き込みがあり、その反応を見ると、「去年の夏に、友達がこの志願法で入ったけれど、彼はインド滞在、少年施設での就業経験、アメリカでの大学での短期コース履修、国内での病院で医者について実習経験といったいろいろなことをして、経験を積んでいたよ」と書いており、その要件の高さは国際公務員の実務経験さながらのようである。

こうした学校成績だけによらない方式で、特に医学部などは経験により、倫理観・道徳観を養ってきたものを評価するといわれる。しかしながら、リベラルな教育の危機で指摘した近年の傾向はここにも当てはまり、政府は若者の就業年齢を早めたいと考えているため、高校卒業後2年以内に進学する者には、応募の際に高校卒業時の成績を1,08倍にして評価するというルールを2009年から適用することを決定した。早く労働市場入る者にはボーナスをつけるということである。

コペンハーゲンの進路選択センター次長でアドバイザーである、ヤン・スヴェンセン(Jan Svendsen)は、要求する成績基準が高い学部ほど、代替であるクウォート2での志願者が多い傾向があるが、志願者たちが現実的にならないまま、経験を高めようと何年もかけてあれこれチャレンジする傾向があることを指摘し、とくに今後2年以上もかけて“現実的でない”努力を続けていると、今後は夢の学部どころか第2志望ですら受け入れてもらえなくなる危険があることを指摘している(MetroXpress、2008年1月24日)。

大学のような長期教育ではなく、3年程度で修了する中期教育では今もクウォート2での合格者は40−60%といい、大学進学へのオルタナティブと合わせても、社会全体での経験に対する評価は比較的高いといえる。しかし、それは教育機関に入学する基準としてであり、就職に際してはどの程度経験が評価されるかははっきりしない。とくに、母国で高い教育を受けていてもデンマークで教育を受けていない移民にとっては、よい条件での就職はなかなか高いハードルであり、2008年2月26日のInformationは、移民のうち4分の1が現在就いている仕事に保持している資格・教育を生かすことができていないと報じている。OECDの新しく出たレポートによるとデンマークはEUのなかでも、労働力が不足しているにも関わらず、移民の資格や能力を十分に活用する機会が最も低い国の一つであると評価されたという。

タクシー運転手をしているエンジニア、新聞配達をしている獣医など、不足している職業の訓練を受けているにもかかわらず、特にデンマーク語という言葉の面でのバリヤーの影響と母国での資格が十分に評価されないため、ノンスキルの仕事に従事せざるを得ないケースはしばしば耳にする。母国での資格を証明する際に、履修したコースの内容などを詳細に証明するほか、それでも不足していると見なされるコースは「デンマーク語で」改めて履修し、不足を補うことが求められるため、短期間の就業を希望しているものにとっては言葉を1から習うという手間を要求されると挫けてしまうためである。

実践経験が教科学習に代わるものとして評価されることは、日本のように暗記力を備えただけのエリートや、頭の回転の速く、試験に強い者だけがよい教育機会に恵まれるのではなく、学校側も応用力や多様性を備えた人材を獲得し、クラスの中でも学生たちが互いに刺激し合えるという点で評価できるだろう。職業教育の現場でも、デンマークでは職場での実践と教室での理論学習を数週間毎に交互に行ったりと、「実習」を非常に重視した教育をしてきた。現場に出る「経験」が現実に生かされ、経験を通して人は学ぶものだという観点は一つの真実であり、特に技術は机上の空論では成り立たないことも多いが、それを乗り越える一つの知恵である。

中学校の終わりの8年生と9年生では、二週間の職業実習経験があり、地元の銀行で硬貨を数えたり、美容院で髪の毛をセットするなど経験をする。長い間、こうした実践の現場を学びの代替として評価する土壌が培われていたが、それは少しずつ失われている観がある。与党である自由党は、去年の10月には実践の場での学びの機会を、二週間の商業高校や工業高校での理論学習で代替するという提案を出した(2007年10月15日、Nyhedsavisen)。上記の銀行と美容院の例だと、銀行に興味のある生徒は商業高校で、美容院に興味のある生徒は工業高校で、それぞれ二週間の研修を受けることで実習の代わりとするという。

政府は2006年の夏に、現在80%に留まる若者の青年期教育(日本の「高校」に当たる)を修了率を2015年までに95%にするということを目標に掲げているため、それを実現すべく、中学校と高校のつながりを緊密にする狙いがあるが、こうした教科成績だけではかれない「経験の価値」を評価する土壌を無にしてしまうのはこれまでの伝統を無にするようで、あまりに惜しい。目に見える科学、生産を生む学習だけを「知識」と狭義に位置づけてしまうことになるのではないかと危惧するのである。産業界と大学の結びつきに野心を燃やす(海外大学設置に見るデンマーク産業界の野心、参照)傾向よりも、もっと身近な、若者たちが地元で小さな店舗や職場に入り、社会経験を積んでいくことで学んできたものに、真実の価値があるのではないだろうか。デンマークの職場と学校の連携はデュアルシステムと呼ばれ、日本からも視察が来て注目されることとなっている。こうしたこれまでに培われてきた実践の価値を見失うことがないようにと願う。
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2007年12月10日

「授業料無料・奨学金つき」大学における学問の自由

デンマークでは、高等教育まで全て授業料が無料であり、しかも無料なだけではなく、誰もにSUと呼ばれる奨学金が支給される。これによって、教育機会の平等は保障されているといえるが、それが結果の平等につながっているかといえば、そうでもない。それでもなお、大学で学ぶ学生の属性を見ると、親の教育が高く、社会的に高い地位の仕事を持っている場合が多く、中・上流階級が再生産されていることはよく指摘されている。

小中学校から、普通高等学校、工業・商業高校等までの中期高等教育は、教育省の管轄であるが、大学教育は科学・技術・発展省の管轄となる。今回は、この高等教育の現場、大学に焦点を当ててみたい。

デンマークの大学教育は、2003年に大きな転機を迎えた。多くの大学教員の反対にもかかわらず、大学に「経営」の視点を入れた「新大学法」(英語版はこちらで全文が読める)が国会で可決され、実施されたからである。2005年1月1日を以って、デンマークの大学も「独立行政法人」化され、外部の産業界の意向などを汲みながら、理事会によって機構を管理するようになったのである。これまで教職員・学生たちによって、全学の教授・助教授の中から選出されていた、学長、学部長、インスティチュートの長は、それぞれ理事会、学長、学部長によって雇用・解雇される権利を握られることになった。学長は、著名な研究者であることに加えて、経営の手腕があり、大学の機能と社会のありようとの協働に洞察を持つことを要件として、理事会に採用される。このように、学内に大きな裁量権を持つ「学長」の採用という大きな権限を持つ理事会であるが、その大部分は大学外部からのメンバーで構成されており、これらの人物はそれぞれの能力・技能に応じ、任期4年で任命される。そのほかに、内部からは研究分野の教職員、技術・事務関係の職員、最低2名の学生が加わるが、理事会のトップとなる理事長は、外部から来た人物でなければならないという規定がある。こうして大学内部の事情に精通していない外部からの管理者によって、運営方針等を決定付けられるトップダウンの体制が整えられた。

以前には、コンシストリウムという機構が最高位に位置し、各インスティチュートの予算等を承認する機能を担っていた。一人の議長(学長に決まっている)と14人のメンバー(外部からのメンバー2名、学部長などの経営・管理者の代表5名、研究分野の教職員2名、技術・事務関係の職員2名、学生3名)によって構成されていた。

この2003年の変革の結果、全てのポストは新聞広告等による公募で行われる誰もに開かれた機会となり、学長を初め、インスティチュート長も学内での評判や実績も知られていない「外部の者」が採用されて務めるようになった。一般企業である日突然、社長や部長が別の会社からやってきて社内の方針を決めるということを想定すると、どれだけ特殊な状況かがわかる。

2007年12月11日のInformationに載ったティム・クヌードセンの論評(Tim Knudsen (2007) Fra folkestyrke til markeddemokratiから大意を抜粋したもの)では、11ある大学の理事会のメンバーの顔ぶれも分析されている。総計114名の理事会のメンバーのうち、実に外部からの者が63名であり、このうち28名がデンマーク産業界のトップであることを初め、11の理事会の議長も5人が産業界から選出されていることなどを詳細に記述している。

同時に、大学の統合も進められ、現在もキャンパスは複数の別の都市に位置したまま、一つの大学として機能するなど、不安定な要素を抱えている。公に語られる統合の理由には、高給を取る管理職を減らすことができるからというものがあるが、そのほかにも、国外での競争力を高く認知させるため、というのが聞かれる。ジョークのような話だが、世界中で「最も優れた大学リスト100」に載る大学が、デンマーク国内15のうち1つなのか、8のうち1つなのかということで、代表性が変わり、国際的競争力が高ま(るように見え)るからである。

これらの変革後、教育機能面では、採算の取れない学部に対しては締めつけを強める、学生が決まった年限で修了しないと補助金を削減するなど、経営の視点はますます強まり、研究機能面でも学問の多様性に貢献するさまざまな方法論をとっていた以前よりも、研究資金を獲得しやすいメジャーな方法論に推移するなどの変化が見られるようになった。

先日、イギリスのリンカーン大学の研究者が行った、ヨーロッパ23か国の大学における学問の自由に関しての調査、"Academic Freedom in Europe: A Preliminary Comparative Analysis"(PDFファイル、英語)の結果が、新聞Informationで大きく取り上げられた(2007年12月5日、Information)。教職員の採用に関しての自主裁量という領域ではデンマークは最下位に属し、総合順位でも23か国中21位というひどい結果になったからである。ここでも、先日取り上げたPISAの調査のように、フィンランドが1位に位置しているのが興味深いが、その後に続くのは、スロベニア、チェコ、ハンガリーといった東ヨーロッパの国々で、「兄弟国」のスウェーデンは19位、そしてデンマークの21位という事実が深刻に受け止められたからである。

この調査は、ユネスコから出された「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」を受けて行われたものだが、デンマークはこの勧告に改善努力をすると署名したものの、「新大学法」によって、勧告から遠く離れた実情を呈しており、デンマークの修士組合の組合長であるイングリッド・ステーエ(Ingrid Stage)は、ユネスコにこの事実を訴えるつもりであるという(2007年12月5日、Information)。(日本語でのこのユネスコからの勧告とアカウンタビリティについて考察したものに、富山大学の広瀬信のものがある。)

大学での研究の自由、そして教職員間の民主主義(意思決定過程への参画)、職員の地位保障といった領域で低いスコアとなり、23か国中21位という結果になったわけだが、このことを受けて、質問を受けた科学・技術・発展省の大臣ヘリエ・サンダー(Helge Sander)は、この調査結果を、現実の自由度について何も示さない「笑止もの」だといい、「デンマークがいる現在の位置(23か国中21位という成績のこと)で結構だ」、と言い切る(2007年12月6日、Information)。短期にわたる雇用契約で契約更新を続ける現在のやり方で、研究の自由が失われないかという質問に対しても、問題はないという見方をしている。

そのほかにも、大学の非常勤講師・TAたちの雇用の不安定さ(年金、育児休暇等の保障はない)、という事例がいくつも報告されている。正規雇用にすると高くつく労働力を、外部からの非常勤講師とすることで支出を抑えていると批判されている。通勤のために週に15時間も使って、4つの異なった大学で非常勤を続けている人の例などは確かに悲惨である。

研究・高等教育の場としての大学の機能の見直しとその労働条件について、国際的な比較から客観的に見える事実もあるのではないだろうか。国際的競争力という指標は一つだが、労働市場の需要に合った人材の育成など、教育現場に残された課題は大きいように思われる。

つづき…この記事を書いて数日後、まさに変質した大学の姿が浮き彫りになった。
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2007年12月05日

乗り越えたPISAショックと調査の妥当性

OECDの生徒の学習到達度調査(通称PISA)の結果が公表されたことで、この数日、日本の各メディアでも記事に挙がっている。日本では「ゆとり世代」の学力低下が実証されたという反省論や、「ゆとり教育」の検証・見直しを求める慎重論が主な論調のようだ。

2000年以来、3年ごとに行われているこの国際比較調査で、その結果が報告されるごとに一喜一憂するという傾向は、デンマークでも同じであった(Wikipediaの「ゆとり教育」にデンマークへの言及がある)。北欧の「兄弟」分であるフィンランドが世界第一位となったのに対して、デンマークでは「PISAショック」と教育関係者に呼ばれた悲惨な結果を受けて、目に見える形での学力到達が明らかな目標として掲げられるようになったし、デンマークの各学校のHPには生徒たちの卒業時の「卒業試験」の成績の平均点(同じ指標を使うため、全国レベルで比較できる。進学状況から見える現実を参照)が誇らしげに掲載されているのは常である。

しかし、今回の調査結果は全く異なった受け止め方をされた新聞記事が各紙を躍った。2007年12月3日のPolitikenは、「PISA調査は、失格点」という見出し、2007年12月4日のInformationは「デンマーク人研究者:PISA調査を廃止せよ」という見出しでの記事である。記事は、7つのヨーロッパの国々の15人の研究者たちの協力によって、PISAの有効性を批判する本PISA according to PISA" (英語のPDFファイルで読める)が刊行されたことを受けて書かれている。これらによると、PISAの調査は非科学的な手法で行われており、客観的な比較対象としては全く使えないものであるという厳しい批判がされている。

ウィーン大学のステファン・ホップマン(Stefan Hopmann)教授は、PISAの調査は客観性とは程遠く、方法論的にも余りにも問題が多いので、公表されるべきものではない、と断じる。一例としては、英語を共通言語とした文化・論理をベースにしているため、カナダやニュージーランド、オーストラリアといった国々にとって有利となっていることをあげている。英語ではごく自然な当たり前の表現でも、他言語では不自然な「訳」となり、生徒たちが回答できない例が多かったケースがあるという。

私見だが、これについては、日本語でも「科学」という言葉があまり根付いていない印象を受けるが、子どもたちは何が「科学」という言葉に含まれているかの合意をしていたか、疑問に思うところがある。「科学に関するテレビを見る」、「科学に関する雑誌や新聞の記事を読む」、「科学を話題にしているインターネットを見る」という設問で、肯定の回答が最下位だったということだが、例えば「理科」「自然・環境」「技術」などに置き換えたら、同じ回答となっただろうか。言葉の翻訳だけでは済まされない、文化・文脈の翻訳が国際比較調査ではどうしても大きな困難となる。

また、ドイツの“デア・シュピーゲル(Der Spiegel)”は、オランダ、アメリカ、イギリスの子どもたちが調査に参加する見返りとして、物品や金銭を受け取っていたことを載せている。アメリカでは、生徒たちは50ドルをもらい、スロヴェニアでは、調査のため学校が一日休みになったという。デンマークでのPISA実施を担当した、デンマーク教育大学のニルス・エーイェルンド(Niels Egelund)教授は、こうした「物品の授受は聞いたことはないが、所詮下らないこと」であり、結果には影響するものでもなく、PISAの有効性は揺らぐものとは見ていない。(以上、抄訳2007年12月3日、Politiken及び2007年12月5日、Information)

デンマークの生徒たちが知識社会で活躍していくために必要とされ、デンマークの小中学校の強みである、「周囲と協働すること」「問題の所在を明らかにすること」「教科・分野を超えて物事を文脈に位置づけること」「それを生徒たちの日常生活と結びつけること」は、PISAの調査では測れないと、自然科学分野教授法研究所所長のイェンス・ドリン(Jens Dolin)は述べている(2007年12月4日、Information)が、確かにこうした創造的な力が応用的な技術や発明を生む源となるといえよう。

教育関連のシンクタンクSOPHIAの所長、ペア・ケルセン(Per Kjeldsen)は、次回のPISAにかかる1200万クローナ(約2億5千万円)ほどは、もっとましな別の用途に使われるべきだと主張している。しかしながら、与党の政治家の意見は必ずしも教育学者の論調とは重ならない。自由党の教育部門の担当であるアネ・メッテ・ヴィンター・クリスチャンセン(Anne-Mette Winther Christiansen)は、これまでのPISAの調査によってこれまでの学校の問題点が明らかになったとし、こうした国際比較の指標を評価している。

日本でも科学離れが特に指摘されていたが、デンマークでも2003年の自然科学での40か国中31位という結果は深刻に受け止められた(総合成績は、30か国中26位)。気になっていた科学だが、今回は57か国中で24位だったため、向上したようだが、それを喜ぶよりはPISAの客観性を指摘する論調が目立っている。悲観的な論調の日本よりもデンマークの方が全ての分野で断然に順位は低いのだが、これを開き直りと見るか、冷静な態度と見るかは、私たち次第である。批判を深刻に受け止めることは必要だが、「PISAには反映されないかもしれないが、この点だったら日本は得意で、日本の生徒たちは世界一優秀なのに!」と言い切れるものを固める方が、ウィットが効いているように思われる。
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2007年08月01日

進学状況から見える現実

つい先日、デンマーク全土で各高等教育機関の受け入れ成績の実態が公表された。毎年この頃になると、6月の高校の卒業試験の成績に準じてその先の進路希望を出した者に対し、結果の封筒が送付され、それとともに一般新聞に合格者の平均成績が載る。つまりは、日本でいうセンター入試の足きり基準の掲載といえば、イメージは沸く。

先日のリベラルな教育の危機に載せたように、近年の若年層の傾向としては高校を卒業後、比較的すぐに進学するが、それでも1,2年程度置いてから進学というのは今でも極めて普通である。つまり、前年度、あるいは前々年度の成績で応募できると思われる学校へ優先順位をつけた上で願書を提出するわけである。

今年は7月28日に、全国で4万6000人余りの生徒が志望校に合格を一斉に通知され、1万人余りが不合格通知を受け取った。応募は8校までできるが、結局受け入れ許可がでなかった場合には、来年あるいは数年後にまた志願書をだすということになる。

これまで、デンマークでは試験といえば国中で、成績は13ポイントのスケールを使っていたが、このデンマーク独自のシステムはEU各国との単位互換など時代の要請に合わせるには理解されがたく、そのため昨年から12を最高とした7つの新しいスケールに変えられることになった。この際の議論としては、5つの点が挙がっており、1.国際的に通用し、換算が可能であること、2.教育制度を一貫して用いられ、目的達成度を示すものであること、3.全ての教育段階で適用されること、4.各グレード間に、明白な違いがあること、5.最終総合成績を平均から計算することが可能であること、を満たすこのスケールが採用された(以前の13のスケールは3と5しか満たしていなかった)。現在は移行期であり、従来のものの方が一般にもまだ通りやすい現状があるため、時に13スケールがまだ使われていることもある。

これまでの13スケールについては、00(お話にならない)、03(受け入れられるレベルには達していない)、05(受け入れられるレベルにはもう一歩)、6(ギリギリで受け入れられるレベル)、7、8、9、(そこそこによい)10、11(とてもよい)、13(通常は出さないが、試験官も予想していなかったくらいよい)といった感じであった。ほとんど全ての試験で13を取った生徒は「デンマークのスーパー生徒!」といった扱いで、新聞にインタビュー記事が載ったりする。なぜなら、13は授業等で教えられたことのレベルを超え、独創的かつ優秀な実績を認められた際にのみ与えられるもので、単に優秀な者に最高評価として与えられるものとは質が違うからである。

少し見にくくなるが、これが新しいスケールでは、これまでの00(お話にならない)が−3【F】、03(受け入れられるレベルには達していない)と05(受け入れられるレベルにはもう一歩)の不合格が00【Fx】、6(ギリギリで受け入れられるレベル)が02【E】、7(平均くらい)が4【D】になり、8、9はまとめて7【C】、10が10【B】、11と13は12【A】とまとめられた。これはそれぞれECTSに対応させたものが【 】の中の英字である。これに伴い、絶対評価だったものが相対評価へ変わり、12【A】は全体の上位10%、10【B】はその下25%、7【C】は真ん中30%、4【D】はその下の25%、02【E】が下位10%と位置づけられた。合計はすでに100%となるが、これは−3【F】と00【Fx】が不合格に当たり、単位がもらえないからである。

さて、話は途中で少しずれたが、今年の進路希望傾向が公表されると再び批判は教育相に集中した。ベアテル・ホーダー(Bertel Haarder)というジャーナリスト出身のこの自由党の大臣は、新自由主義的な視点で、アメとムチを使い、若者を早いうちに労働市場に出すことや他のヨーロッパ諸国との競争に勝つことに焦点を置き、政策を進めている。そのうちの一つは、職業専門教育と称し、教員や看護師といった3年半程度の中長期教育を一括して国内の8つの継続教育センター(CVU)で統合して組織することである。2001年頃から少しずつ各校の統合を進めてきたが、2005年1月をもって1つの機関として法的にも確立された。これが本格的に機能し始めるのが、2008年の1月であるため、学生の志願状況はまさにこの政策に対する「消費者」からの評価であるという事情であった。

今回の志願状況を見たところ、希望に大きな偏りがあり、小中学校教員、保育士といった将来の子どもを支える教育を作っていくうえでの支柱となる上記の高等教育センターのコースを希望するものが激減したことがわかった。これは、ここ数年の傾向ではあったが、今回はそれにさらに拍車をかけ、20%程度も希望者が減ったため、「大惨事」とまで評され、新聞にもたくさんの論調が掲載された。

小中学校の教員不足はすでにだいぶ前から危惧されており、現在の教員たちのうち42%が50歳以上であるため、彼らが退職する頃には一斉に教員が不足し、すでに2015年には全体のうち13%の教員を無資格の者で代替せざるを得なくなるという(Politiken、2007年7月28日)。保育士の希望者も減ってはいるが、小中学校の教員に比べれば現職の平均年齢がまだ若いため、そうすぐに不足するということはないようである。

小中学校の教員志願者は2001年には4538人だったが、年々減少し、2007年は2896名であった。実に6年間で4割近く減少していることがわかる。この2896名が全て教員になってくれればいいが、このうち課程を修了する者は63%で、さらにそのうち7割がいつかの時点で(卒業後すぐとは限らない)小中学校での教職につくだろうという見込みであるから、教員養成が追いついていないのは見てとれる。

高等教育を志願する者のうち、10人に6人が女子であり、今年の傾向として女子には医学、法学、心理学がとくに人気があった。男子は、手に仕事をつけるような実践的な教育を選ぶ場合が多いが、在学中に「修了しなくても自分にはできるのではないか」という感覚から、途中でドロップアウトする者が多いという。給与の面からいうと、司法関係は高給取りではないようだが、女子はよりプレスティージの高い職を目指し、男子は現実的に経験を積んでいくといえそうだ。

小中学校の教員不足の問題は、教員に対するプレスティージが十分でないからだという論調も見られ、私も同意する。日本での教員養成学部の学生からの(不)人気や、来る団塊世代の一斉退職とともに共通の課題も多く、今後も追ってみていきたい。
posted by Denjapaner at 04:33| Comment(0) | 教育事情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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