2008年08月03日

若者ホームレスへの関心の高まりと彼らへの「本当」の対策

前回の福祉国家の片隅の貧困と増加する若者ホームレス では、アルコールや薬物の乱用が世代を連鎖して貧困を生み出し、若者ホームレスが増えている現状を扱ったが、折しも、フース・フォービというホームレスの作る冊子の2008年7月号が、若者ホームレスを扱い、さらに若者・子どものホームレスに対する熱い関心をテーマに取り上げている。

この「フース・フォービ」はイギリスや日本で売られているビッグ・イシューと同様に、ホームレスの自立支援を目的として販売されているもので、デンマークでは1996年から始められた。20kr.(約500円)のワン・コインで駅ホームで買え、そのうち8kr.が販売者(ホームレス)の収入となる。この冊子の存在は国民にも深く浸透しており、広く知られているし、大学や省庁などのまとめ購読による財政支援で、運営的にもうまくいっているようだ。年間に12冊刊行され、個人では年間340kr.(サポート会員は540kr.)、協賛事業者は組織として1800kr.を年間に払うことで、定期購読としての支援がされている。

特に今月の記事は、学校の生徒たちがホームレス問題に高い関心を寄せている実態、18歳未満の増加する若者ホームレスたちなどの生の声や実際に援助してもらえる先の方法など、テーマ的にも非常に充実しており、40ページほどにぎっしりと書かれた記事は、どれも紹介したいほど面白い。例えばある記事は、学校の総合的学習としてホームレス問題を議論させたり、招かれたホームレス体験者に子どもたちが率直な質問をぶつけたり、実際にホームレスの人々に作った食事を提供してみたりと、横断的で実際的に貧困やアルコール・薬物依存など、社会の問題を考える機会を与えている。こうした機会は、ただ記事として紹介されるだけではなく、積極的な取り組みとして「関心がある学校には出前講座に伺います」とコンタクト先を載せ、今度の紹介の機会にまでつなげる情報源ともされており、教育プログラムとしても興味深い。

ホームレスの住居協会によると、ホームレスの人々の生計は、50%が精神障害者年金を受給、22%が生活保護か失業給付を受給、23%は就業していることによって立てられているという。ホームレスの約半分を占める精神障害者年金というのは、身体的、精神的、社会的な事情で自活できない場合に給付され、日本での精神障害者保健福祉手帳の給付のようなものである。給付額は2008年水準で、単身の場合には月額15,232kr.(約40万円)、パートナーがいる場合には12,947kr.(約30万円)であり、配偶者に年金額以上の収入がある場合には、受給額が減らされる。条件は、デンマーク市民権を持つ国民であること、デンマークに住所を持つこと、15歳を超えてから過去3年間デンマークに住んでいること、の三点である。これらの人々は労働市場へ「復帰の見込みの(ほとんど)ない」養われる者となるため、国はこの受給対象者を増やさないようにしている。

これに対して、通常の失業者は市のジョブセンターに求職者として登録され、週に4件の求職活動をしなければ失業給付金は停止される。また、生活保護は申請時に10,000kr.以上の財産を持つ場合には、家はもちろん、テレビやコンピュータなどの資産をまず売らないと受給権はない。その点からも、失業給付は「就労意欲も(潜在的)能力もがあるが、(一時的に)事情によって適わない」者をサポートするシステムとしてあることといえる。そのため、権利に安住させない「尻叩き」が常に行われる。日経新聞の記事「再挑戦できる国、デンマーク」でもこの2008年2月から始まった「週に4件の求職活動をしないと給付停止」についてはアメとムチの「ムチ」として触れられているが、それが効果を挙げているという文脈で扱われている。しかし、デンマーク語で「週に4件出願」というキーワードでグーグル検索をすると、出てくるのは「週に4件の出願条件を廃止せよ」という論調ばかりであるし、開始時から非常に反対意見が多かった。理由の一つは、動機付けもなくその気もない求職活動をすることが、求職者にとっても雇用者側にとっても時間の無駄を招くという極めて合意的な事情である。

元ソーシャルワーカーのグンヴァ・アウケン(Gunvor Auken)は、こうした若者のホームレス問題に対して、25歳未満の生活保護が国からの奨学金であるSUを基準として支給されていることが、生活保護受給者の若者の生存ぎりぎりラインに満たない生活を招いており、これは将来的に精神的な問題を抱えて精神障がい者年金をもらう者を増やしているようなものだ、と断じている(2008年7月30日、Information)。SUをもらう若者たちには、学業の傍らに働いたり、学資ローンを借りたり、安価な学生寮に入ったりといった方法で、その上に資金を増やしたり、支出を減らしたりすることができるが、生活保護の受給者はそういった権利も持たないことを上げている。

2008年7月26日のInformationでは、さらに23歳のベニーというアイスランド人の青年ホームレスとのインタビューをもとにしている。18歳の頃からホームレスをしている彼は、アルコール依存である。上記のような「尻叩き」に対応して職に就くことができずに、結局1年半前に生活保護を打ち切られ、それ以来朝5時に起きて道端に転がっている空のビール瓶やプラスチックボトルを集めて、保証金回収からお金をもらい、それを「中身の入ったビール瓶に変える」という生活を続けている。ビールを15本ほど飲んだところで、ようやく指の震えが止まり、あとは午後まで眠って、一時的な生活センターの仲間たちとテレビを見て過ごす。そんな彼の望むのは、「何でもいいから楽な仕事をして、世界中を船で旅して回ること」だ。これ以上紹介しても、同じになるので割愛するが、2008年7月31日の記事のクラスという27歳の男性もこれまでの若者ホームレスと同様に同じである。アルコール・薬物への依存が貧困線にいる若者の間でどれほど蔓延し、それがまた次の世代に連鎖していくかということを実感する。幼いときからアルコールを飲むようになった者ほど、その後アルコールの問題を抱えるケースが多いという。2008年7月25日のInformationの記事でも、アルコール依存患者の自助グループAAに相談をする人の数が、10,000件からたった二年間で、12,000件ほどまで増えていること、相談の電話が自身のアルコール問題を抱えた10歳の子どもから来ることさえあったことなどが載っている。

アルコール・薬物問題という自身の弱さから来る問題を抱えた者は、「自己責任」に起因されやすく、むしろこうした若者たちにそれでも月に10万円も生活保護が出たり、精神障がい者年金の受給資格を手に入れてしまえば生涯、年金が月額40万円ほども給付されるというのは、日本から見るととんでもない「甘え」とみなされるだろう。それだけ、日本では自己責任の言説が身体化されているということでもあるわけだが、デンマークの若者たちが権利を自明のものと捉え、庇護されることを当然とした「甘え」を備えていることも事実である。そうした批判は、こうした生活保護や障がい者年金の受給者という社会的弱者に向けられて顕在化することが多いが、実に批判されるべきは、もともと自分自身への甘えを許してしまうデンマーク人の精神構造と教育・しつけにあるのではないか。日本は何か辛いことがあったときに、「石の上にも三年」「明けない夜はない」と辛抱を重んじる文化だが、デンマークでは、「する気がしない(Jeg gider ikke...) 」「なら止めてしまいなさい(Så lad være!)」といった言い回しを聞くことが実に多い。こうした日常が積み重なった結果が、教育課程から安易に落ちこぼれたり、やりたくないことはやらないまま、ずるずると自分を受け入れてくれるところを探して、薬物やアルコールに現実逃避をする道になっているように思われる。

「大変なこともあるけれど、生きるために辛抱しなければ」といった当然の耐性さえも備えず、「この仕事は大変だから、止めて失業手当で暮らそう」と誰もが考えたら社会は回らない。こうした辛抱のない精神的構造がフットワークの軽い政策を次々と生み出している一方で、本人たちの気づかないところで社会的弱者に回される若者を生み出している。自立心を育てる教育と「甘い」家庭のしつけの間に でも触れたが、デンマーク人は精神的な自立を適えている一方で、我慢強さがないことで、その場限りの生き方をする単純な若者が増えている。若者ホームレスや貧困の背景として、こうした耐性のなさが挙げられることを考えると、「(彼らを貧困から救うために)給付額を増やす」といった議論や「(働かないのだから自己責任で)給付基準を厳しくし、受給者を減らす」というどちらの議論も、根本的なところにある、“なぜこうした若者が生まれているのか”という問題を解決することなく、社会的弱者の存在を是として受け入れるものとなり、論理も破綻することがわかるだろう。
posted by Denjapaner at 05:16| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会福祉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。いつも更新を心待ちにして拝読させていただいています。デンマークにきてから個人的にも関心をもっていた問題に、タイミングよく、またいつもながら手際よくまとめてくださりうれしいです。「Jeg gidder ikke...」がその場から退場する時の合い言葉になっていて、それを言えば「自己主張」として尊重される場面を、息子の通う幼稚園でも目にしたことがあります。それが若者のホームレスを本人の意図に関係なく生み出す遠因になっているとのご指摘、興味深いです。とくに近年の左派の議論において最後のよりどころとなっているベーシック・インカム論の実効性に、もしかしたら疑いを投げかけるかもしれないという点からも興味深いです。

家庭教育だ、個人の意識だという話に回収されてしまうとするとそれはそれで何も言っていないことになってしまうので警戒しなければなりませんが、それでもベーシック・インカムによって働いても働かなくても生きていける状態が実現したとして、小さなアパートの家賃もまかなえるような給付額だったとしても、今回のエントリを読むと、アルコールや薬物などへの依存は人を簡単にホームレス状態へと導きかねないと考えずにはいられないです。アルコールや薬物に対する規制の強化はひとつの回答ですが、何かを規制したとしてもまた何か別の「問題」がすぐに浮上してくることと思います。目に見える問題をモグラ叩きのようにつぶしていくことでその場は収まるかもしれませんが、なんだか、結局見えてくるのは、人間の弱さ、そしてその弱さを許容しない社会のような気がします。それはもう福祉国家の制度を精緻にしていくことではカバーしきれない問題かもしれないと、論理の飛躍を承知のうえで考えてしまいます。

それでも『Hus Forbi』のような支援のシステムが存在したり、ホームレスのなかにも出前講座で小学校にでかけて自分の体験を話したりする人たちがいるのだと思うと、弱さとの共存をかなえようとしている人の存在を知り、ほっとします。それがまたデンマークらしく、子どももホームレスも先生も平等に議論したり「自己主張」したりするのかなと想像すると、それはそれで福祉国家のひとつの達成なのではと大目に見てあげたくもなってしまいます。でもこれはやはり、北欧(デンマーク)礼賛論に傾きすぎの視点かもしれませんね。
Posted by midorisa at 2008年08月05日 18:20
>midorisaさま
お返事が遅れてすみません!普段からおしゃべりさせていただいているからいいかなぁと、つい怠けていました。こんなブログ主ですが、更新を楽しみにしてくださっている方がいるなんて、励みです。のんびりとしっかりと今後も続けていきます!

「弱さを許容しない社会」というのは、いくつかの面で同感です。もしかしたら「社会」という言葉よりも、「時代」の方が適合するのかもしれませんが、厳しい時代になりましたね。セカンドチャンスを与えない日本、目に見える成果を常に求めるデンマーク、こうした新自由主義的な改革は社会というよりも、今の時代の流れのようにも思います。

S電車の、違反乗車の罰金もまた上げられるようです(750krになるらしいですよ!)。疑うところからスタート(キップも買わないで乗っている人がいるのだから、厳しい罰金を設定せよ)しないとならないという性悪説の社会が本当に幸せを生むのか、疑問に思います。こうした点では、むしろ日本のほうが信頼からスタートしている気がします。入り口(改札)で要件を課して、あとは間違っていたら正してくれる(精算機)のはある意味、性善説です。

それと同時にデンマーク人であるという生まれながらの条件を備えたものには、大変な甘えがあります。「やりたい仕事がないのだから失業保険で生きて何が悪い、失業給付がカットされるだって?弱者をいじめるひどい話だ!」と権利を当然のものとして、対象化することない主張にはやはりエゴを感じます。(世界中に、やりたくない仕事を引き受けて、生計を立てなければならない人たちがどれだけいるのでしょう?)政治的な正しさだけを主張して、共感能力のない人のエゴには、しばしば苛立ちを覚えますね。

Posted by Denjapaner at 2008年09月11日 05:46
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