デンマークでは、家庭教育という言葉に相当する概念を見つけるのは難しい。しかし、いわば学校で学ぶ教科学習以外の、子どもが身につける技能が「家庭教育」に期待される役割とすると、そういった世の中の合意のようなものは存在する。本稿では、メディアで触れられる記事を紹介しながら、デンマークのしつけや子ども観を紹介する。
今年の二月、コペンハーゲンの動物園で、近親交配を防ぐという理由で、一頭の健康な1歳半のキリンが殺処分された。その数日前から、何の病気もなくまだ若いキリンが殺されるというニュースは世界中を駆け巡り、各地の動物愛護家からの取りやめ嘆願書や、他の動物園からの引き取り願いの話も出ていた。しかし、動物園側は予定通り殺処分を実行し、一般公開し子どももいる場でキリンを解体し、その肉をライオンなどの餌として与えたことが世界に衝撃を与えた。
これにより、動物園をボイコットしようという呼びかけや、園長への脅迫なども伴った批判の声が出てきたが、解体して餌にするとなど、まったくもって理解不能、「デンマークはたぶんヨーロッパでも最もどうかしている国だ」(カナダのポール・ワトソン 反捕鯨活動家)という諦めにも近い声を含め、聞かれた批判の多くは外国からの非難であり、日本でもこのニュースは報道された。
日刊紙インフォマシオン は、このキリンの殺処分からデンマークの世界観を解釈している。オーフス大学教育学研究科教授、ニン・デ・コニンク・シュミットによると、子どもは抽象的な概念を具体的な事象や現実の例と出会いながら学ぶのが最適だという考え方がデンマークにはあり、これはペスタロッチ教育学に端を発するという。そのため、このキリンの殺処分・解体の例も、デンマークの子どもたちにとっては、自然がどうした原則で動いているかを一個の人間として見つめ、その世界観のなかで育っていく。「子どもを常に守り、幼児扱いする他の国とは一線を画する」とコニンク・シュミットは語る。オーフス大学で児童文学センター長を務めるニナ・クリステンセンも同意見であり、アメリカやイギリスを中心とした国々では、動物を愛らしいものとしたロマンチシズムに根差している一方、デンマークでは啓蒙時代に築かれた、自然に出て行き、その観察の中から学ぶという思想に根差していることを指摘する。
それに加えて、三〇年代に発展してきた改革教育学の影響も大きい。子ども自身の発達を出発点として、そこから意思決定の主体として子どもの意見を取り入れていく。教員などの権威が一方的に教えるものを常に正しいと受け取るのではなく、そこに批判的・懐疑的な姿勢をもって民主的に参加しながら自ら考える姿勢を身に着けることが重要視されるようになった。こうした、子どもを独立した一個の存在として認め、その一人一人の意見に耳を傾けるという文化が、外国人にはやや理解しがたい、動物園でのキリンの解体ショーを子どもに見せに来るデンマーク人につながったという分析である。
また、スンデースアヴィーセン の記事でも、「子どものしつけにやってはならない七つの大罪」として、家庭教育について触れている。この記事では、複数の児童心理学の専門家への聴取をもとに、夫婦共働きの忙しい毎日で子どもが言うことを聞かない際にも、親がしてはいけない七つのこと を挙げ、これらの代わりとなる対処案を提案している。親なら誰も心当たりがある「七つの大罪」では、一.体罰を与える、二.怒鳴る、三.叱りつける、四.物で釣る、五.脅す、六.くどくどと説明をする、七.すぐに折れて、子どものわがままを受け入れる、が挙げられている。記事全体としての助言は、頭ごなしに叱らず、毅然として感情的にならずに子どもにメッセージを伝えること、子どもを一個人として尊重し、全体のなかで選択の自由と責任を感じさせることである。
オーフス大学の教授、ペア・シュルツ・ヨアンセンは、現在のデンマークのしつけが自由放任主義と子どもとの交渉がその大部分を占めようになったと見ている。忙しい毎日の中では、さまざまな方法で子どもを黙って従わせたくなるが、叱りつけたり体罰を与えたりしても、子どもは恐れを抱き、諦めることを覚えるだけで何も学ばない。そこでむしろ、自由と権利を与え、同時にそれに伴う責任を与えるというのが現在の考え方である。 やりかたの一例としては、大皿で出される料理を親が取ってやらずに子どもに好きなものを自分で取らせ、その代わりに、自分が取った分は責任をもって残さず食べるようにさせることを挙げている。
こうした家庭のなかで「判断のできる個人」として育てられた子どもが、過度に守られることのない自然の原則のなかで批判的に冷静に物事を見るように育てることが、デンマークでの「家庭教育」の目的ということができる。それは扱いやすい市民を育てるためでもなく、自治体からの手引書もない。むしろ、いかに「子ども扱いせずに、意見を備えた一個人として扱うか」が大きな鍵となっているように思われる。
権威主義的なやり方を捨て民主的な平場の構造へと移行したデンマークでは、教員もクラスメートも、誰もが名前を呼び捨てにするほど、距離感が近い。教育の文脈でよく出てくるキーワードに、共同の(「何々とともに」、英語でのCo-)という言葉がある。「共同責任」、「共同意思決定」といった言葉は、自分が共同体の一部であることの自覚をいやがおうにも促す。そして共同体に参画することで、自分のものである(「オーナーシップ」)感覚を身に着けさせ、そこに愛着を抱かせるのである。日本を振り返って、改めて「愛国心」の意味を再考させる観点であるように感じられる。