2010年04月08日

普遍主義原則を手放す、公共医療の行く末

デンマークの社会制度の中でこの10年ほどで最も大きく様変わりし、将来のあり方が危ぶまれるものは、医療セクターだと個人的には考えている。この傾向が過度に進めば、公共医療が機能しなくなり、お金やネットワーク、雇用形態などに恵まれた者だけを対象として民間の医療がその役割を代替していくことにもなりかねない。医療費がかからないため、病気になっても経済的な心配しなくて済むことはデンマークの社会保障の大きな意味を持ってきた。しかし、この前提が変わり始めている。

政府が民間の診療所や病院が医療体制の一部をなすように、民間病院の優遇を続けた結果、誰も保障された医療への公平なアクセスという福祉の大前提が崩れ始めていることは、以前にも挙げた(医療費無料の現実と民間健康保険人気という歪み)。その前提にあるのは、治療待機期間保証の制度である。

簡単にいうと、これは4週間以内に手術を受けられる見通しが立たない場合に、公費で民間の医療施設にかかれるという制度だ。医療を管轄するのは広域連合(リージョン)であり、国から配分された予算から各治療機関に医療費を支払うかたちだ。民間病院での医療費は、公立病院での治療費も基本的に高額であるが、公立病院の枠組みのなかで、4週間の待ち時間という「約束」を守れない場合には、治療施設をもつ民間病院がその不足を補完し、広域連合が治療費を支払う。

実際に、この制度によってどんな弊害が出てきているのかを見てみよう。Politikenの報道によると、の2009年の下半期に公立ゲントフテ病院の耳鼻咽喉科は、期間内に手術できる見込みがないため、253人の患者を民間の病院に紹介している。そのうちの99人は民間のハーレウ私立病院に送られた。このハーレウ私立病院には6人の外科医がおり、そのうち5人が紹介元である公立ゲントフテ病院に現役で在勤している(6人目は、ゲントフテ病院を定年退職)。16時の公立病院の終業後、「副業」で割のいい稼ぎをするため、民間医院に急ぐのは珍しいことではなくなってきている。医師の副業は禁止されていないため、終業後の余暇時間にさらに稼ぐのは本人の自由だ。

数年前に、医師は患者に自分の勤める私立病院を指名して紹介してはいけないという規定が作られたが、患者はネットで情報を探し、治療可能な施設リストから自分でこの病院を選んでいると説明されている。人口550万人の小さな国で、専門的な手術ができるところを探すとなると、限られてくるのも無理はないのかもしれない。

前記のゲントフテ病院の耳鼻咽喉科の例では、手術を受けるまでの待機期間の見込みは鼓膜で104週(約2年)、副鼻腔では78週(1年半)、鼻中隔で52週(1年)という。これでは、4週間などという公約はただのお飾りとなることがわかるだろう。

副業に勤しむ医師の倫理を問うこともできるが、それよりは公立病院が十分に医師の勤労に報いる環境になっていないことが指摘される必要がある。なぜ、同じ医師たちがいる公立病院で手術ができず、民間病院ならできるのか。そこにはデスクワークやその他の雑務に追われ、十分な数の手術をする時間が取れない実態がある。医師へのガイドラインとして、副業をする場合には広域連合にお伺いを立てるようにという規定があったが、それも3月末の医局長組合との交渉で破棄されたところだ(2010年3月29日、Dagans Medicin)。今後も、医療従事者の公から民への流出はとまることはなさそうだ。

今でこそ隆盛という言葉が似合う民間病院だが、最初から順風満帆だったわけではなく、初期には苦戦を強いられ、閉鎖を迫られたところもあった。最初の民間クリニック「マーメイドクリニック」は、1989年に開設されたが少なく見ても1億5000万クローナ(約27億円)の赤字を出し、早くも1994年に閉鎖されている。流れがぐっと変わったのは、2003年の政府の待機期間保証がだされてからである。当時は2ヶ月、その後は1ヶ月の待機期間で治療にかかれることを保証するとして、それがかなわない際の民間病院の利用を可能にした。これによって、民間病院の「客」(あえてこう呼ぼう)は格段に増え、2003年の1年間だけで4億から5億クローナ(約72億〜90億円)が広域連合を通じて税金から支払われた。2010年の予算規模ではすでに10〜12億クローナ(約180〜216億円)が民間病院での治療費に計上されており、これは医療費全体予算の1.5%から2%に相当する。ここで便宜上、治療待機期間保証制によって回ってくる患者を「第1グループ」と呼ぼう。

「第2グループ」は、企業の福利厚生の一環として、民間健康保険に入っている者である。これも政府の政策により、企業も加入者も保険料を税金から控除できるようにしたため、加入者が激増して、今では100万人近くが入っており、この人たちは保険で治療を受けられる。そして残りの「第3グループ」が、全部自己負担で民間医院にかかるケースとなる。これは美容整形などで、それほど多くない。政府の方針により、「第1グループ」、「第2グループ」の患者が増えることで、民間病院の売り上げが拡大し、同時に既存の公共医療を悪化させている。

治療待機期間保証は万人に適用されるため、現段階ではこの「第1グループ」には誰もが入れる可能性があるわけだが、「第2グループ」は保険加入者だけである。将来的に公共医療が衰退し、病院の質や数が低下したとき、安心して民間医療にかかれるのはこの「第2グループ」(そしてお金のある「第3グループ」)ということになる。この点で、政府の民間病院への優遇は、経済的な格差が健康の格差へとつなげる重要な転換点となる。

フルタイムで民間病院に勤務する専門医は約80人、看護師は400−500人といい、約5000人の医局長と3万人の看護師を抱える公立病院に比べると一端をなしているに過ぎないという批判もある(2010年4月3日、Politiken)が、副業として公立病院の医師たちが民間医療セクターの大きな部分を占めている事実が抜け落ちている。しかし、公立病院の医師に副業を禁止させる措置をとることは、逆に医師たちを民間病院に固定化させることにつながりかねない。広域連合会長のベント・ハンセンが危惧したように、「手術室や道具はあるけれども、医療スタッフがいなくて手術できない」という事態が公立病院に訪れるかもしれない。

医師や看護師の不足は長く議論されてきた(スウェーデン人を教育し、インド人を「輸入」するデンマークの医師不足の現実 参照)が、経済危機後に公立病院は看護師を解雇している。こうした流れも、ますます公共医療のあり方をゆるがせるものとなっており、今後が危惧される。
posted by Denjapaner at 13:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 医療問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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