デンマークの包括教育
今、デンマークの学校教育のなかで注目されている概念に、「包括(インクルージョン)」がある。障害などの有無によらず、どんな人でも共同体の参加者となる権利をもつというものである。1994年にサラマンカ宣言が出されて以来、包括教育は重要なテーマとされてきたものの、特別支援学級の生徒は通常学級と交流がないなど、孤立・隔絶が指摘されることもあり、より抜本的な包括への試みが求められていた。
近年、自閉症、注意欠陥性障害、アスペルガーといった診断を下される生徒が増えるに従って、特別なニーズをもつ生徒への対応の拡充が迫られ、特別支援学級に通う生徒は2010年には生徒数全体の6.9%を占めていた。これにより、特別支援教育へ使われる予算は、年間130億DKK(約2600憶円)に上るようになり、公立学校の年間予算の3分の1を占めるほどにまで膨らんでいた。
生徒を特別支援学級に送るのは、通常学級に入れるよりも格段に高コストのうえ、特別支援学級に通っていたという過去は生徒にとっても後のスティグマとなり、将来的なパフォーマンスにも影響することがわかってきた。こうした背景で、政府は2012年4月に学校教育法に「包括」条項を導入し、これまでの特別支援教育対象者の定義を変えて、特別支援教室に通っていても、週に9時間以内であれば「通常」の生徒と同様とみなすようにした。さらに、政府と自治体連合は、特別支援学校、特別支援学級に通う生徒の数を2015年までに4%未満に抑えるようにという具体的な指示を出した。教育大臣は、この変更を特別支援学級にかけていた費用を削減する目的ではないと強調しているが、特別支援学級に通う生徒を5.6%(2012年)から4.6%にするだけで14億DKK(約280億円)の節約につながるという試算もあり、大きな支出削減が見込まれる。2013年末の段階では、特別支援学級に通う生徒は5.1%にまで下がっているとされ、あと一息のようにも見える。
「包括」は、これまで特別支援学級に来ていた生徒も通常学級に取り込んでいくというように使われる。発達障害や特別なニーズをもつ生徒も区別せずに通常学級に取り込み、教員が「授業の差異化」といった努力をすることで、生徒がおのおのの発達段階に応じて適切な課題を与えられて伸びていくことを目指す。93年の学校教育法の改正によって、この「授業の差異化」が基礎原則とされるようになった。授業の差異化は包括とも近い概念であるが、包括は授業だけではなく、子どもがどんな風に過ごしているかといった価値をも含むのに対して、授業の差異化は純粋に学習内容を指している。
「快適で満足した状態」を目標に
診断つきといったレッテルで区別することなく、誰もが共同体の一員となり、肩を並べて学ぶ。理念として聞こえはいいが、受け入れた通常学級側ではきちんと授業の質が担保されるのだろうか。ある調査によると、新卒教員が「十分な準備ができていない」と感じる最たるものが、まさにこの「授業の差異化」であり、そのため近年の教員養成でも重視されている。鍵となるのは個々の生徒の「学習目標」、「評価」、「フィードバック」をしっかりと行うことというが、なお難しい課題だ。
政策先行で目標づけられた包括教育だが、現場の実情を詳らかにするため、2013年から3年間、国内98の自治体のうち12を対象として、教育学研究者による追跡調査が行われ、中間報告が出された。しかし結果は残念なものだった。ある自治体では、2012年に特別支援学級を撤廃し、そこに通っていた230人の生徒のうち174人を普通学級へ包括したが、授業中の叫び声や周囲の生徒の学習妨害、殴り合い、教員のストレスによる欠勤といった多くの問題が生じていることが示された。こうした結果に伴って、この自治体では子どもの学習環境を懸念して、親が公立学校から私立の学校へ転校させるケースまで散見されるようになってきた。すでに2014年夏の新学期から、この自治体では私立の学校が二校開校される予定になっているが、公立学校を忌避して転入してくる生徒が多いためとも見られ、包括の政策が最終的にはうまくいくのか、そもそも包括は望ましいことなのかと疑問が呈され、メディアでも議論となっている。(注)デンマークでは私立学校であっても、運営予算の八五%程度が公費で賄われるため、保護者の授業料負担もそれほど重くなく、教育理念に賛同する人が一定数集まり、基準を満たせば親たちが新しく学校を立ち上げることは比較的易しい。
包括のテーマで、政府の挙げている目標は三点ある。より多くの生徒が普通学級の授業に参加するようにすること、義務教育修了試験の成績で、02以下の生徒を減らすこと、学校で生徒が快適で満足した状態を維持することである。(注)EUの基準に合わせた7段階の成績基準であり、12、10、7、4、02、00、-3でつけられ、いわばA、B,、C、,D、Eに当たり、02が合格最低ラインでそこに至らない場合には不合格となる。言い換えるならば、一つ目が特別支援学級からの移転、二つ目が通常学級の生徒の学力底上げ、三つ目が学力以外の、子どもが学校で過ごす時間の質の担保ということになる。
「快適で満足した状態」とは冗長な訳であるが、英語で言えばwellbeingに当たるデンマーク語で、毎日心晴れやかに学校や職場に通い、快適に一日を過ごすことを意味する。政策主導の下、外から下から押し上げて「一つの共同体」を構成することはできるかもしれないが、この三つ目の課題、質の担保がまさに難点となる。政策目標とするのは容易でも、実現に向けて努力が迫られるのは現場の教員側である。この夏に施行される学校改革を含め、政策主導の変化に戸惑う教員も多く、年長者は早期退職を検討さえしているとも聞く。違いに寛容な社会の形成が支出削減の言い繕いにされるかは、教員たちに力量にかかっている。