2014年06月10日

包括(インクルージョン)の課題 特別支援学級から通常学級へ

『日本教育』平成26年6月号、pp.24-25より掲載。

デンマークの包括教育
 今、デンマークの学校教育のなかで注目されている概念に、「包括(インクルージョン)」がある。障害などの有無によらず、どんな人でも共同体の参加者となる権利をもつというものである。1994年にサラマンカ宣言が出されて以来、包括教育は重要なテーマとされてきたものの、特別支援学級の生徒は通常学級と交流がないなど、孤立・隔絶が指摘されることもあり、より抜本的な包括への試みが求められていた。

 近年、自閉症、注意欠陥性障害、アスペルガーといった診断を下される生徒が増えるに従って、特別なニーズをもつ生徒への対応の拡充が迫られ、特別支援学級に通う生徒は2010年には生徒数全体の6.9%を占めていた。これにより、特別支援教育へ使われる予算は、年間130億DKK(約2600憶円)に上るようになり、公立学校の年間予算の3分の1を占めるほどにまで膨らんでいた。

 生徒を特別支援学級に送るのは、通常学級に入れるよりも格段に高コストのうえ、特別支援学級に通っていたという過去は生徒にとっても後のスティグマとなり、将来的なパフォーマンスにも影響することがわかってきた。こうした背景で、政府は2012年4月に学校教育法に「包括」条項を導入し、これまでの特別支援教育対象者の定義を変えて、特別支援教室に通っていても、週に9時間以内であれば「通常」の生徒と同様とみなすようにした。さらに、政府と自治体連合は、特別支援学校、特別支援学級に通う生徒の数を2015年までに4%未満に抑えるようにという具体的な指示を出した。教育大臣は、この変更を特別支援学級にかけていた費用を削減する目的ではないと強調しているが、特別支援学級に通う生徒を5.6%(2012年)から4.6%にするだけで14億DKK(約280億円)の節約につながるという試算もあり、大きな支出削減が見込まれる。2013年末の段階では、特別支援学級に通う生徒は5.1%にまで下がっているとされ、あと一息のようにも見える。

 「包括」は、これまで特別支援学級に来ていた生徒も通常学級に取り込んでいくというように使われる。発達障害や特別なニーズをもつ生徒も区別せずに通常学級に取り込み、教員が「授業の差異化」といった努力をすることで、生徒がおのおのの発達段階に応じて適切な課題を与えられて伸びていくことを目指す。93年の学校教育法の改正によって、この「授業の差異化」が基礎原則とされるようになった。授業の差異化は包括とも近い概念であるが、包括は授業だけではなく、子どもがどんな風に過ごしているかといった価値をも含むのに対して、授業の差異化は純粋に学習内容を指している。

「快適で満足した状態」を目標に
診断つきといったレッテルで区別することなく、誰もが共同体の一員となり、肩を並べて学ぶ。理念として聞こえはいいが、受け入れた通常学級側ではきちんと授業の質が担保されるのだろうか。ある調査によると、新卒教員が「十分な準備ができていない」と感じる最たるものが、まさにこの「授業の差異化」であり、そのため近年の教員養成でも重視されている。鍵となるのは個々の生徒の「学習目標」、「評価」、「フィードバック」をしっかりと行うことというが、なお難しい課題だ。

 政策先行で目標づけられた包括教育だが、現場の実情を詳らかにするため、2013年から3年間、国内98の自治体のうち12を対象として、教育学研究者による追跡調査が行われ、中間報告が出された。しかし結果は残念なものだった。ある自治体では、2012年に特別支援学級を撤廃し、そこに通っていた230人の生徒のうち174人を普通学級へ包括したが、授業中の叫び声や周囲の生徒の学習妨害、殴り合い、教員のストレスによる欠勤といった多くの問題が生じていることが示された。こうした結果に伴って、この自治体では子どもの学習環境を懸念して、親が公立学校から私立の学校へ転校させるケースまで散見されるようになってきた。すでに2014年夏の新学期から、この自治体では私立の学校が二校開校される予定になっているが、公立学校を忌避して転入してくる生徒が多いためとも見られ、包括の政策が最終的にはうまくいくのか、そもそも包括は望ましいことなのかと疑問が呈され、メディアでも議論となっている。(注)デンマークでは私立学校であっても、運営予算の八五%程度が公費で賄われるため、保護者の授業料負担もそれほど重くなく、教育理念に賛同する人が一定数集まり、基準を満たせば親たちが新しく学校を立ち上げることは比較的易しい。

 包括のテーマで、政府の挙げている目標は三点ある。より多くの生徒が普通学級の授業に参加するようにすること、義務教育修了試験の成績で、02以下の生徒を減らすこと、学校で生徒が快適で満足した状態を維持することである。(注)EUの基準に合わせた7段階の成績基準であり、12、10、7、4、02、00、-3でつけられ、いわばA、B,、C、,D、Eに当たり、02が合格最低ラインでそこに至らない場合には不合格となる。言い換えるならば、一つ目が特別支援学級からの移転、二つ目が通常学級の生徒の学力底上げ、三つ目が学力以外の、子どもが学校で過ごす時間の質の担保ということになる。

 「快適で満足した状態」とは冗長な訳であるが、英語で言えばwellbeingに当たるデンマーク語で、毎日心晴れやかに学校や職場に通い、快適に一日を過ごすことを意味する。政策主導の下、外から下から押し上げて「一つの共同体」を構成することはできるかもしれないが、この三つ目の課題、質の担保がまさに難点となる。政策目標とするのは容易でも、実現に向けて努力が迫られるのは現場の教員側である。この夏に施行される学校改革を含め、政策主導の変化に戸惑う教員も多く、年長者は早期退職を検討さえしているとも聞く。違いに寛容な社会の形成が支出削減の言い繕いにされるかは、教員たちに力量にかかっている。
posted by Denjapaner at 00:28| Comment(1) | TrackBack(0) | 教育政策 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

自由放任とそれに付随する責任:デンマークのしつけと世界観

 更新をさぼっているブログであるが、先日、公益社団法人日本教育会から依頼を受けて、二号にわたってデンマークの教育に関して原稿を書かせていただいた。ようやくどちらも公刊されたので、ブログで公開する。(『日本教育 平成26年4・5月合併号』、pp.24-25より)

 デンマークでは、家庭教育という言葉に相当する概念を見つけるのは難しい。しかし、いわば学校で学ぶ教科学習以外の、子どもが身につける技能が「家庭教育」に期待される役割とすると、そういった世の中の合意のようなものは存在する。本稿では、メディアで触れられる記事を紹介しながら、デンマークのしつけや子ども観を紹介する。

 今年の二月、コペンハーゲンの動物園で、近親交配を防ぐという理由で、一頭の健康な1歳半のキリンが殺処分された。その数日前から、何の病気もなくまだ若いキリンが殺されるというニュースは世界中を駆け巡り、各地の動物愛護家からの取りやめ嘆願書や、他の動物園からの引き取り願いの話も出ていた。しかし、動物園側は予定通り殺処分を実行し、一般公開し子どももいる場でキリンを解体し、その肉をライオンなどの餌として与えたことが世界に衝撃を与えた。

 これにより、動物園をボイコットしようという呼びかけや、園長への脅迫なども伴った批判の声が出てきたが、解体して餌にするとなど、まったくもって理解不能、「デンマークはたぶんヨーロッパでも最もどうかしている国だ」(カナダのポール・ワトソン 反捕鯨活動家)という諦めにも近い声を含め、聞かれた批判の多くは外国からの非難であり、日本でもこのニュースは報道された。

 日刊紙インフォマシオン は、このキリンの殺処分からデンマークの世界観を解釈している。オーフス大学教育学研究科教授、ニン・デ・コニンク・シュミットによると、子どもは抽象的な概念を具体的な事象や現実の例と出会いながら学ぶのが最適だという考え方がデンマークにはあり、これはペスタロッチ教育学に端を発するという。そのため、このキリンの殺処分・解体の例も、デンマークの子どもたちにとっては、自然がどうした原則で動いているかを一個の人間として見つめ、その世界観のなかで育っていく。「子どもを常に守り、幼児扱いする他の国とは一線を画する」とコニンク・シュミットは語る。オーフス大学で児童文学センター長を務めるニナ・クリステンセンも同意見であり、アメリカやイギリスを中心とした国々では、動物を愛らしいものとしたロマンチシズムに根差している一方、デンマークでは啓蒙時代に築かれた、自然に出て行き、その観察の中から学ぶという思想に根差していることを指摘する。

それに加えて、三〇年代に発展してきた改革教育学の影響も大きい。子ども自身の発達を出発点として、そこから意思決定の主体として子どもの意見を取り入れていく。教員などの権威が一方的に教えるものを常に正しいと受け取るのではなく、そこに批判的・懐疑的な姿勢をもって民主的に参加しながら自ら考える姿勢を身に着けることが重要視されるようになった。こうした、子どもを独立した一個の存在として認め、その一人一人の意見に耳を傾けるという文化が、外国人にはやや理解しがたい、動物園でのキリンの解体ショーを子どもに見せに来るデンマーク人につながったという分析である。

 また、スンデースアヴィーセン の記事でも、「子どものしつけにやってはならない七つの大罪」として、家庭教育について触れている。この記事では、複数の児童心理学の専門家への聴取をもとに、夫婦共働きの忙しい毎日で子どもが言うことを聞かない際にも、親がしてはいけない七つのこと を挙げ、これらの代わりとなる対処案を提案している。親なら誰も心当たりがある「七つの大罪」では、一.体罰を与える、二.怒鳴る、三.叱りつける、四.物で釣る、五.脅す、六.くどくどと説明をする、七.すぐに折れて、子どものわがままを受け入れる、が挙げられている。記事全体としての助言は、頭ごなしに叱らず、毅然として感情的にならずに子どもにメッセージを伝えること、子どもを一個人として尊重し、全体のなかで選択の自由と責任を感じさせることである。

オーフス大学の教授、ペア・シュルツ・ヨアンセンは、現在のデンマークのしつけが自由放任主義と子どもとの交渉がその大部分を占めようになったと見ている。忙しい毎日の中では、さまざまな方法で子どもを黙って従わせたくなるが、叱りつけたり体罰を与えたりしても、子どもは恐れを抱き、諦めることを覚えるだけで何も学ばない。そこでむしろ、自由と権利を与え、同時にそれに伴う責任を与えるというのが現在の考え方である。 やりかたの一例としては、大皿で出される料理を親が取ってやらずに子どもに好きなものを自分で取らせ、その代わりに、自分が取った分は責任をもって残さず食べるようにさせることを挙げている。

こうした家庭のなかで「判断のできる個人」として育てられた子どもが、過度に守られることのない自然の原則のなかで批判的に冷静に物事を見るように育てることが、デンマークでの「家庭教育」の目的ということができる。それは扱いやすい市民を育てるためでもなく、自治体からの手引書もない。むしろ、いかに「子ども扱いせずに、意見を備えた一個人として扱うか」が大きな鍵となっているように思われる。

権威主義的なやり方を捨て民主的な平場の構造へと移行したデンマークでは、教員もクラスメートも、誰もが名前を呼び捨てにするほど、距離感が近い。教育の文脈でよく出てくるキーワードに、共同の(「何々とともに」、英語でのCo-)という言葉がある。「共同責任」、「共同意思決定」といった言葉は、自分が共同体の一部であることの自覚をいやがおうにも促す。そして共同体に参画することで、自分のものである(「オーナーシップ」)感覚を身に着けさせ、そこに愛着を抱かせるのである。日本を振り返って、改めて「愛国心」の意味を再考させる観点であるように感じられる。
posted by Denjapaner at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育事情 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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